真宗興正派
湖南山教基院
東光寺

東光寺は「真宗興正派」という浄土真宗の一宗派に属する寺院です。

南無阿弥陀仏のお念仏の教えを拠り所にし、その教えを通して、すべての人が心豊かに、一度きりの人生を精一杯歩んでいけることを目指しています。

お知らせ

お知らせ

  • 令和7年春季彼岸会

    令和7年3月18日(火)~20日(木・祝)
    各日午後1時より
    法話:住職自役
    ※20日(木)は午前11時より物故者追弔法要を勤修します

    だんだんと日が長くなり、春が近づいてきたことを感じます。
    東光寺では、春分の日までの3日間、彼岸法要を勤めます。
    安心ある日暮らしを送っていくために、お念仏のいわれをたずねる聞法の機会を大切にして参りましょう。
    ぜひお誘い合わせの上、お参りください。

    なお、20日(木)は午前11時より令和6年度物故者追弔法要が勤修されます。物故者のご家族以外の方もお参り頂けます。
    参詣の皆様には東光寺三宝の会より、御斎(おとき)が進上されますので、お召し上がり頂き、午後からのお彼岸法要にもお参りください。

ひと言法話

  • 同体の慈悲

     先日、コンビニで買い物をしておりますと、杖をついて覚束ない足取りのおじいさんが店内に入ってきました。なにやらブツブツと呟きながら歩いておられましたが、突如、大きな声で叫んだかと思うと、前のめりに倒れてしまったのです。どうやら、「滑る、滑る」と呟きながら用心して歩いておられたようなのですが、杖も履いていた長靴も、底がゴムだったために、コンビニの床では滑り、敢え無く転倒してしまったのです。幸いにも、おじいさんは床に転がる寸前に身が翻って、滑り込むように倒れたために、身体のどこかを強くぶつけることがなくて、大事に至りませんでした。
     その一部始終は私の目の前で起こったのですが、すぐに店員さんや他のお客さんも近くに寄ってきて、おじいさんが立ち上がるのを皆で支えました。店員さんはその後も、「任せてください」と言って、優しく付き添ってあげていました。おじいさんの怪我が無かったこともあり、見ず知らずの人同士の優しさや連帯感を感じて、久しぶりに心が温まる出来事となりました。

     さて、ほとんどの人は、このように誰かが転んだ時には、傍観せずに手を差し伸べて助けようと思うはずです。そして、その瞬間は、誰も見返りなど考えていないでしょう。これは本能的か後天的に育てられるものか分かりませんが、私たち人間が持っている「他の人(仲間)を思いやる心」です。
     しかし、よくよく考えると、私たちの「他人を想う心」とは、どこまで行っても不完全なものです。私たちは他人に手を差し伸べることは出来るのですが、その人の痛みや苦しみまで全く同じように感じることはできません。
     上記の転んだおじいさんの身体の痛みや恥ずかしいという気持ちまでは共有することはできないのです。あくまでも自己の経験を通して「想像する」ことしかできません。それは悲しいかな、どんなに大切な人であろうとも完全に同じ立場、心境に立つことは決してできないという事実ではありますが、とは言え他の人の痛みや悲しみを想像するという行為は、私たちにとって非常に重要な営みであることは言うまでもありません。それがなければ、和やかで、円滑な社会は決して生まれません。
     不徹底ではあるけれど、できるだけ他の人の想いに寄り添えるように努めたいものです。

     ところで、仏教には「慈悲」という大切な言葉があります。他のいのちに対して楽を与え、苦を取り除きたい(抜苦与楽)という意味があり、これは上述のように私たち人間には完全になし得ず、仏さまの心と言うことができます。
     この慈悲の心について、特に阿弥陀如来のお慈悲は「同体の慈悲」であると聞かせていただいたことがあります。
     それは、いのちを共有するところにおきる「人の喜びを我が喜びとし、人の悲しみを我が悲しみとする」という「同事」の心であり、例えば、転んだ人が目の前にいたならば、手を差し伸べるよりも先に、同じように転び、痛みや恥ずかしさまでも真に分かち合っていこうとする心です。それは、「仏心とは、大慈悲これなり」(『観無量寿経』)とあるように、私たち人間の思慮をはるかに超えたまことの慈悲でありますから、「大慈悲」と表されます。
     私の苦しみも悲しみも、私と同じように味わい分かってくださる存在がある・・・実に頼もしいことであります。

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