東光寺は「真宗興正派」という浄土真宗の一宗派に属する寺院です。
南無阿弥陀仏のお念仏の教えを拠り所にし、その教えを通して、すべての人が心豊かに、一度きりの人生を精一杯歩んでいけることを目指しています。

お知らせ
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秋のお彼岸法要
令和7年秋のお彼岸法要は次の日程で勤めます。
どうぞご参詣ください。9月21日(日)~9月23日(火)
各日午後1時より
法話:住職自役~お願い~
納骨堂にご参詣の方は、ロウソクや線香など、火元の管理に十分ご注意ください。
お参り後は、納骨壇の扉を開けたままにしておいてください。
秋分の日は、太陽が真西に沈みます。先人達は、その先の西方浄土(彼岸)を想い、手を合わせお念仏なさったことでしょう。これほど科学技術が発達し、文明が進んだ現代にも関わらず、私たちは相変わらず不安や悩みを抱えつづけ生きています。煩悩に惑い、四苦八苦に翻弄されながら悩み生きる人間の本質は、過去から何ら変わっていないということでしょう。
先人達が阿弥陀如来の浄土を想い、その人生を安らいでいかれたように、私たちも阿弥陀様のご本願を訪ね、まことの拠り所を持った確かな人生を歩ませて頂きましょう。

ひと言法話
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海
先日、知床方面に出掛けた際、海岸線を車で走っていると、海面に陽光が反射して、とても美しく、遠い水平線まで広がる雄大さと相まって、しばし車を止めて眺めていたくなる風景でした。しかし、7月30日に津波警報が発令された際は、東北の大震災の時にテレビで見た、現実とは思えないような光景が思い返され、美しかった海が大変恐ろしい存在にも思えました。
命を育み、美しく豊かな恵みの海も、時に荒れ狂い人智の及ばぬ自然の脅威として海も、どちらも同じ海の本質であり、その二面性故に人間は海への畏敬の念を絶やさないのかもしれません。
さて、私たちの宗祖である親鸞聖人は、著述の中に、「海」のたとえを、非常に多く使用されています。京都に生まれ、比叡の山で長く修行された親鸞聖人が、初めて海をご覧になったのは、流罪となって越後に向かわれた途中だったのでしょうか。琵琶湖よりも遙かに大きな日本海の大海原を見て、どれほどの衝撃や感動を覚えられたことでしょうか。その心境が、沢山の海の譬えとなって表れているのかもしれませんが、親鸞聖人の海の使用例にも、次のように二つの側面があります。
一つには、私たち凡夫の世界を海にたとえたもの(難度海、群生海、愛欲の広海、生死の苦海など)
二つには、阿弥陀仏の働きを海にたとえたもの(弥陀本願海、功徳大宝海、大智願海、不可思議の徳海など)
親鸞聖人にとっても「海」とは、人間の苦悩を象徴するような厳しく度し難い存在としての海と、十方世界の衆生を摂取し続けようとする阿弥陀仏の慈悲のように大きく深い海として、二面性を持って受け入れられていたのでしょう。
しかし、それらは決して別個のものとして表現されているのではありません。
煩悩と雑毒の善にまみれながら、荒れ狂う海の中で群れて漂うことしかできぬ凡夫が、ひとたび阿弥陀仏の本願に身を任せたならば、智慧と慈悲に満たされた温かく穏やかな海に浮かび、一人一人が必ず仏と成る身へと転ぜられ、輝いていくことが出来るのだという、阿弥陀仏の本願と私たち凡夫の決して離れることのない関係性が示されているように思います。

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