動物には、種の保存のために、子を護る母性本能を促すホルモンが分泌される仕組みがあり、それによって護るべき存在と排除すべき敵とが区別されるそうで、動物の親子の群れに、別の群れの個体が入って来ようとしたとき、それを排除しようとするのは、そうした脳の仕組み、つまり本能によるものだそうです。
人間も動物ですから、同じ仕組みを持っています。私たちは自分の家族と他人の家族とを当たり前に区別しますし、見方を広げれば、社会の中で自分に親しく仲の良い人たちと、そうではない人たちとを、区別しながら生活しています。これもまさに本能によってなされることでしょう。
そのことを表す言葉に、親鸞聖人がご和讃の中に用いられた「愛憎違順」という言葉があります。「意に順ずるものは愛し、違うものは憎む」という意味ですが、このことが本能によって為され、私たちが離れることの出来ない煩悩なのだとすれば、これはもはや当然のこととして、肯定されていくべきなのでしょうか?
私たちは動物であるとは言え、愛憎違順の心を「本能だから、煩悩だから」と、そのまま盛んにしてしまっては、なまじ人間は知恵を持っているだけに、他の動物よりもはるかにタチの悪い有様となってしまいます。同じ種の「人間」同士で、縄張り争いをし、争い傷つけ合う「戦争」の姿は、まさに動物の本能以上に煩悩を盛んにしている人間の愚かな姿そのものです。
はたして私たちが人間に生まれて来た甲斐とは何でしょうか?そうやって本能のままに生き、恨みをつのらせ、憎しみ合い、争いに勝利して一時の愉悦に浸ることなのでしょうか。
お釈迦様は、
「無慚愧はなづけて人と為さず、名づけて畜生と為す」
(我が身を省みて恥じる心のないものは人とは言えない。それは畜生と同じである。)
『涅槃経』
と仰っています。
人間は慚愧の心を持つことができます。自分を省みて、愚かな行動を恥じ、自分以外の存在を認めながら、手を差し伸べ助け合える生き方こそ、人間として生まれて来た甲斐があり、本当の喜びのある人生であると、教えてくださっているのではないでしょうか。
私たちの生きる世の中が、このまま畜生道や修羅道の世界へと染まっていかないように、お釈迦様の智慧ある言葉を皆が心に留め置かねばなりません。