わが身の往生、一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために、御念仏、こころにいれてもうして、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれと、おぼしめすべし
(仏の教えに出会って、みずからの身の救いが解決したと思う人は、仏のご恩に報いるためにお念仏を、心をこめて称え、「世の中が安らかで平穏であるように、仏法がひろまるように」と、お考えになるのがよいのです。)
『親鸞聖人御消息集(広本)』
今年も残すところ、あと僅かとなりました。
近年は、お正月を迎えても、若い時のような高揚感のような感覚よりも、歳月の重さを感じることの方が多くなりました。
さて、私たちはお正月には「あけましておめでとう」という挨拶を交わします。
よくよく考えてみると、新年を迎えたことをおめでとうと喜べるのは、実に有り難いことであったと気付かされます。
社会が安定していること。
命の心配がないこと。
食べることに不自由しないこと。
暖かい場所で寝られること。
孤独の寂しさがないこと。
そうした恵まれた環境にあってこそ、新年を喜ぶことができるのでしょう。
逆を言えば、世の中では、それがままならない状況の人たちが、今この時も大勢いるのです。
誰もが穏やかに新年を迎えられることを願っているのに、世の中では、人間自身の「エゴ」によって、争い、苦しみ悩みながら、今日一日さえも危うい命が無数に存在しているわけです。
私たちは、自分の都合こそ善悪の判断基準とし、都合の悪いものは排除しようとします。ですから世の中から争いが止むことがありません。実に哀しく、空しいことです。
いま私たちがなすべきことは、阿弥陀仏の真実の智慧を拠り所として生きることです。そして、煩悩を抱えた凡夫としての自分自身の姿を知ることです。その中で、感謝と自省を持ち、世の中安穏なれと願う、まことの人間としての生き方が与えられてくるのではないでしょうか。