東光寺について

東光寺は「真宗興正派」という浄土真宗の一宗派に属する寺院です。

南無阿弥陀仏のお念仏の教えを拠り所にし、その教えを通して、すべての人が心豊かに、一度きりの人生を精一杯歩んでいけることを目指しています。

東光寺では、一年を通して、各種法要・仏教行事を執り行っています。
また、各家庭のご法事や葬儀などの法要はもちろん、結婚式や初参式(お子さんが生まれて初めてのお参り)などの人生の節目の行事も仏式で行っています。

お悩みを抱え、占いやお祓いなどに、解決の道を求めようとされる方もいらっしゃることでしょう。
東光寺では浄土真宗の教えにそぐわないため、祈祷やお祓い、水子供養などは行いません。ですが、心配事やお悩みがあるときは、どんなことでもお話を伺います。つらい心の内を誰かに伝えることで、悩みが幾分軽くなるかもしれませんし、解決の糸口が見えてくるかもしれません。
伺ったお話は決して他の方に知られることはありませんので、どうぞお気軽にご相談ください。
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【東光寺の沿革】

明治44年(1911年)に、香川県から初代住職の大屋敷唯正が、本山の命を受けて来道し、現在の大空町女満別大東の地に草庵を設け開教しました。

大正9年(1920年)、二代目住職淘江光闡の代に湖南山教基院東光寺という寺号を得、大正13年、三代目住職三井義順の代で、現在地に移転しました。

その後、三井住職の後継者が定まらず、廃寺の方向へ傾きかけましたが、当時の総代が札幌別院に住職招聘を願い出て、昭和29年(1954年)岩内町役場に勤務していた三村秀教が四代目住職として任命されました。
以降、五代目三村教良、六代目三村淳良(現在の住職です)と続いています。

四代目住職一家が岩内町から移り住んだ当時は、御堂や住居はあるものの、簡素な作りであったことから、隙間風が至るところから入り込み、厳冬を越えることに苦労したと聞きます。五代目住職が小学校から帰ると、隙間を埋めるために新聞紙を貼ることが日課だったそうです。

そのような時代を経て、現在の本堂は、昭和44年(1969年)に建立され、その後、庫裡や大広間の建築、境内整備、本堂修繕などを順次進め、現在の東光寺の景観が出来上がりました。

【浄土真宗について】

宗祖:親鸞聖人 承安3年(1173)4月1日~弘長2年(1262)11月28日
本尊:阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)
経典:浄土三部経
    『仏説無量寿経(大経)』
    『仏説観無量寿経(観経)』
    『仏説阿弥陀経(小経)』
教義:南無阿弥陀仏のみ教えを信じ、必ず仏にならせていただく身の幸せを喜び、つねに報恩のおもいから、世のため人のために生きる。

南無阿弥陀仏の教え

――阿弥陀仏とは――

 浄土真宗は仏教の中でも、「阿弥陀仏の救いの働きである南無阿弥陀仏のお念仏」の教えを拠り所にしています。
 阿弥陀仏とは、限りない光といのちの仏様です。(尽十方無碍光如来、不可思議光如来、無量寿如来など、そのお徳を表した沢山の別名があります) 

 阿弥陀仏は、仏の悟りを開く前、法蔵(ほうぞう)という名前の菩薩でした。「菩薩」とは、悟りを目指す修行者のことを言います。もともと法蔵菩薩は、一国の王様だったのですが、世自在王仏の説法を聞いて感動し、自分も仏の悟りを得ようと発意して、国も地位も捨てて、修行者となりました。

 菩薩となった法蔵は、誰も建立したことのない優れた仏国土を作り上げ、生きとし生けるものを救いたいと願いました。そして、師の世自在王仏(せじざいおうぶつ)に願い出て、他のあらゆる仏さまの国土や人民を、くまなく調べ尽くしたのです。

 法蔵菩薩は、自分の決意を実現するためには、どうしたらよいのか、五劫(ほぼ無限といってもよいくらいの時間)の間、考えに考え抜きました。そして、ついに他のどの仏さまもなし得なかった優れた誓い(本願)を建てられました。

 ひたすら志をつらぬき、永いご修行をなさった法蔵菩薩は、ついに本願を成就され、阿弥陀仏となられました。それは、いまから十劫の昔である、と『仏説無量寿経』には説かれています。

 阿弥陀仏は成道(仏の悟りを得ること)以来、現に生きとし生けるものを、その本願の力によって救い続けていらっしゃいます。このことを「他力本願」(阿弥陀仏が本願力によって衆生を救う働き)と言います。
 この言葉は、浄土真宗の教えの根本をあらわす、とても大切な言葉です。決して、他人の力を頼みにして怠けることを意味しているのではありません。

――本願とは――

法蔵菩薩が建てた本願は『仏説無量寿経』の中では、全部で48ヶ条の誓いとして説かれています。(四十八願と呼ばれます。)その十八番目に、

「設我得仏 十方衆生 至心信楽欲生我国 乃至十念 若不生者不取正覚 唯除五逆誹謗正法」

(私が仏になるにあたって、生きとし生けるものが、心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。)

『仏説無量寿経』

と説かれています。この第十八番目の願いは「念仏往生の願」と呼ばれ、四十八願の中で最も根本の願とされています。

 第十八願には、本願を信じて念仏(南無阿弥陀仏と称えること)するものが、自らの建てた国(極楽浄土)に生まれなければ、決して悟りを開かないと示されています。人々を救うこと(利他)が、そのまま自らが悟りを開いていくこと(自利)に繋がっていく訳ですから、修行者にとって、大変重要な誓いとなります。故に、これこそ法蔵菩薩(阿弥陀仏)の根本意趣だと見なされるわけです。

 この念仏往生の願が成就していればこそ、私たちはお浄土へと往き生まれていくことが出来るのです。
 煩悩が燃え盛り、清らかな心をひとつも持ち合わせない悪人、また、どんな仏道修行も満足に成し遂げることが出来ない凡夫は、このままでは地獄行きに間違いないでしょう。ですが、そのような私であろうとも阿弥陀仏は助けようと願ってくださっています。その働きを信じ、南無阿弥陀仏を称えるならば、地獄必定の悪人である私でさえも、浄土へと往生する身に転ぜられていくのです。
 まことに如来の慈悲は大きく、御恩は深いことであります。

――南無阿弥陀仏とは――

 「南無」とは「帰命」のことです。「帰命」には「帰依する」「おまかせする」「たのみとする」というような意味合いがあります。つまり南無阿弥陀仏とは、「阿弥陀仏に帰依し、おまかせする」という意味を持つことになります。しかしながら、この「南無阿弥陀仏」というお念仏は、私たちの側から阿弥陀仏に対して、救いを請求するような「祈り」や「呪術」のようなものではありません。

 阿弥陀仏は、そのご本願において「必ず助けるから、私を信じ、私の名前を呼んでくれよ。」と願ってくださっています。そのご本願が成し遂げられて、いま実際に生きとし生けるものを助ける働きとして、私たちのもとに届けられているのが「南無阿弥陀仏」です。

 前述の四十八願の第十七番目には、「あらゆる世界の諸々の仏たちが、阿弥陀仏を讃え、その名が十方世界に響き渡らないようであれば、私は仏とならない」と誓われています。諸仏が「南無阿弥陀仏」をほめたたえる声をとおして、いま私たちに至り届き、その名を聞かせてもらっているということです。

京都女子大学を創始した教育者の甲斐和里子さんは
「み仏のみ名を称ふるわが声は わが声ながら尊かりけり」
と詠っておられます。
 自分自身の口から発せられている念仏が、実はすべて阿弥陀仏のお慈悲の働きによって称えさせられていたのだという、まことに広大な事実に気付いた時の感動と敬いの心が顕されているように思います。

 「南無阿弥陀仏」には阿弥陀仏の慈悲の願いがかけられています。その願いに、私たちは素直にうなずき、「お任せします」と応えます。合掌した両の手のひらがぴたっと合わさっているように、「南無阿弥陀仏」を信じ称えるところに、阿弥陀さまの心と私たちの心がぴたりと寄り添っている、まことに尊いお働きが顕れていると言えるでしょう。

親鸞聖人について

 南無阿弥陀仏のお念仏のはたらきを、私達に一層詳しく説き明かしてくださった方が親鸞聖人です。

 親鸞聖人は、9歳で得度し、29歳まで比叡山で修行をなさったと伝えられています。しかし、どれだけ修行に励もうとも、自分の中から絶えず沸き起こる煩悩によって心が安まることがありません。
「そのような愚かな自分が、どうして仏の悟りなど得ることが出来ようか」
 若い親鸞聖人には、自らが歩むべき道筋が見出せず、眼前にはただ闇が広がっていくばかりでした。

 親鸞聖人は、悩みに悩んだ末、新たな道を求められ、20年もの間懸命に修行と勉学に励んだ比叡山を去ることを決意されました。
 山を下りた後、聖徳太子が建立したと言われる京都東洞院の六角堂に百日間の参籠をしましたところ、九十五日目に、聖徳太子が夢に立たれ、吉水という所にいらっしゃる法然聖人を訪ねるよう告げられました。

 その六角堂の夢告に従って、吉水の法然聖人を訪ねた親鸞聖人は、そこで阿弥陀仏の本願念仏の教えに出遇われました。
 そして、それから幾日も幾日も法然聖人の元に通い、お念仏の教えをひたすら聞き続けました。

「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を捨てて本願に帰す。」

(この愚かなる親鸞は、建暦元年(1211年)、一切の自力の行を捨てて、弥陀の本願ひとつに帰依しました)

『顕浄土真実教行証文類』「化身土巻」

 親鸞聖人29歳、法然聖人に出遇われた年をもって、阿弥陀仏の本願に生きる身となったことを、主著である『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)の中に述べられています。
 また、その冒頭にはこのように仰っています。

「ここに愚禿釋の親鸞、慶ばしいかな、西播・月支の聖典、東夏・日域の師釈に遇ひ難くして、今遇ふことを得たり。聞き難くして已に聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここを以て聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。」

(ここに愚禿釈の親鸞は、よろこばしいことに、阿弥陀仏の法を伝えたインドや西域の聖典と、それらを解釈された中国・日本の祖師方の教えに、遇いがたいのに今遇うことができ、聞き難いその法を、いますでに聞くことができました。そして、この真実の教・行・証の法を、心から敬い信じ、如来の恩徳が無限に深いことを知りました。そこで私は、このように聞くことができた阿弥陀仏の法をよろこび、得させていただいたところをたたえます。)

『顕浄土真実教行証文類』「総序」

 悪人・凡夫である自分さえも救われていく道を求め続けた親鸞聖人が、法然聖人をとおして、ついに自らが仏と成っていくことの出来る教えに出遇われたことの感動が込められています。

 親鸞聖人は、自分自身のことを「愚禿(ぐとく)」と名乗り、煩悩に心惑わされながら生きるしかない愚かな凡夫であると表明されています。このような「罪悪深重の凡夫」である自分自身でさえも、仏の悟りへと向かわしめる真実の教えが、阿弥陀仏の本願念仏だと受け止められたのでした。

 その後、親鸞聖人は念仏弾圧や越後への流罪など様々な困難に直面しました。しかし、法然聖人から教わった本願念仏の教えは、どのような境遇にあろうとも、終生大切にされました。
 そして、越後や関東で生活する中で、親鸞聖人は多くの人に念仏の教えを説き示し、各地に多くの念仏の朋を生みました。また、『顕浄土真実教行証文類』をはじめ、多くの書物を書き残し、後世の私たちにお念仏のみ教えを伝えてくださったのでした。

宗派の成り立ち

 親鸞聖人ご自身は、「浄土真宗という宗派を新しく作る」という意思をもって布教活動をされていたわけではありません。親鸞聖人は終生、自分は法然聖人の弟子であるとの立場だったように思われます。
 弟子の唯円が親鸞聖人から聞いた言葉を書き記したと言われている『歎異抄』の中に、

「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀に助けられまひらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」

(このわたし親鸞は、ただ念仏を称え、阿弥陀如来にたすけられて浄土に参らせていただくのだと、よき師法然聖人の仰ったことを信じる他には、何も持ち合わせていない。)

『歎異抄』第二条

という一節がありますが、自分は法然聖人に教えて頂いたことをただ信じるのみであるという親鸞聖人の信仰姿勢が示されています。
 また、親鸞聖人が晩年に書き残された「和讃」の中には、

智慧光のちからより  本師源空あらはれて
浄土真宗ひらきつつ  選択本願のべたまふ

『高僧和讃』

と示されており、法然聖人こそ浄土真宗を開いた方なのだと仰っています。(この場合の浄土真宗は、宗派名というよりも、「浄土往生を説く真実の教え」という意味合いです。)

 親鸞聖人が御往生なさった後、さまざまな歴史的背景を持ちながら、浄土真宗という宗派が形成されていきますが、現在では、親鸞聖人が『顕浄土真実教行証文類』を著述された年(1224年)、聖人52歳の時をもって、立教開宗の年と定められています。
 なお令和5年には立教開宗800年、親鸞聖人お誕生850年の節目を迎え、各宗派の本山では記念法要が営まれる予定となっています。
 現在、浄土真宗には真宗教団連合に属する宗派として十派が存在しています。(真宗十派以外の浄土真宗系統の寺院もあります)

ー真宗十派ー

宗派名 本山 所在地
真宗興正派 (興正寺) 京都市
浄土真宗本願寺派 (西本願寺) 京都市
真宗大谷派 (東本願寺) 京都市
真宗高田派 (専修寺) 三重県津市
真宗仏光寺派 (仏光寺) 京都市
真宗木辺派 (錦織寺) 滋賀県野洲市
真宗出雲路派 (毫摂寺) 福井県越前市
真宗誠照寺派 (誠照寺) 福井県鯖江市
真宗三門徒派 (専照寺) 福井県福井市
真宗山元派 (証誠寺) 福井県鯖江市

 なぜ、このように沢山の宗派に別れていったのかと言うと、大まかに言えば、はじめは親鸞聖人の師弟関係と血縁関係からなる系譜によって教えが受け継がれ、様々な歴史的背景から現在の真宗十派になっていったのです。

 私達の真宗興正派の本山興正寺は、師弟の系譜である仏光寺の流れをうけており、室町時代中期に仏光寺から別れ、本願寺と歩みを共にした歴史があります。現在の興正寺の堂宇が西本願寺に隣接していることは、そうした歴史背景に関係しています。
 その後、明治になり別派独立し、現在の真宗興正派が形成されました。