先日、知床方面に出掛けた際、海岸線を車で走っていると、海面に陽光が反射して、とても美しく、遠い水平線まで広がる雄大さと相まって、しばし車を止めて眺めていたくなる風景でした。しかし、7月30日に津波警報が発令された際は、東北の大震災の時にテレビで見た、現実とは思えないような光景が思い返され、美しかった海が大変恐ろしい存在にも思えました。
命を育み、美しく豊かな恵みの海も、時に荒れ狂い人智の及ばぬ自然の脅威として海も、どちらも同じ海の本質であり、その二面性故に人間は海への畏敬の念を絶やさないのかもしれません。
さて、私たちの宗祖である親鸞聖人は、著述の中に、「海」のたとえを、非常に多く使用されています。京都に生まれ、比叡の山で長く修行された親鸞聖人が、初めて海をご覧になったのは、流罪となって越後に向かわれた途中だったのでしょうか。琵琶湖よりも遙かに大きな日本海の大海原を見て、どれほどの衝撃や感動を覚えられたことでしょうか。その心境が、沢山の海の譬えとなって表れているのかもしれませんが、親鸞聖人の海の使用例にも、次のように二つの側面があります。
一つには、私たち凡夫の世界を海にたとえたもの(難度海、群生海、愛欲の広海、生死の苦海など)
二つには、阿弥陀仏の働きを海にたとえたもの(弥陀本願海、功徳大宝海、大智願海、不可思議の徳海など)
親鸞聖人にとっても「海」とは、人間の苦悩を象徴するような厳しく度し難い存在としての海と、十方世界の衆生を摂取し続けようとする阿弥陀仏の慈悲のように大きく深い海として、二面性を持って受け入れられていたのでしょう。
しかし、それらは決して別個のものとして表現されているのではありません。
煩悩と雑毒の善にまみれながら、荒れ狂う海の中で群れて漂うことしかできぬ凡夫が、ひとたび阿弥陀仏の本願に身を任せたならば、智慧と慈悲に満たされた温かく穏やかな海に浮かび、一人一人が必ず仏と成る身へと転ぜられ、輝いていくことが出来るのだという、阿弥陀仏の本願と私たち凡夫の決して離れることのない関係性が示されているように思います。