内懐虚仮

 ただいま、当寺堂宇の窓リフォーム工事を行っています。
 交換した窓ガラスは、特殊なフィルム加工によって、外側からは建物の中が見えにくく、内側からは普通に外を見ることができる仕様になっています。この仕組み自体は昔からあるものですが、便利なものですね。けれども、もしこれが逆だったらどうでしょう。中からは外が見えないのに、外からは中が丸見えだとしたら…。ぞっとしますね(笑)

 そんなことを考えているうちに、次の言葉を思い出しました。

 「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」

(読み方)「外(そと)に賢善精進(けん ぜん しょう じん)の相(そう)を現(げん)ずることを得(え)ざれ、内(うち)に虚仮(こ け)を懐(いだ)ければなり。」

(意訳)「外面(がい めん)に賢(かしこ)く善(ぜん)を励(はげ)む姿(すがた)を見(み)せるべきではありません。内面(ない めん)には愚(おろ)かな偽(いつわ)りの心(こころ)を持(も)っているのですから。」

 この言葉は、『観無量寿経(かん む りょう じゅ きょう)』というお経の一節を、中国の善導大師(ぜん どう だい し)が『観経疏(かん ぎょう しょ)』という書物の中で解釈されたものを、親鸞聖人が引用されたものです。
 実は、この一文は本来、「外(そと)に賢善精進(けん ぜん しょう じん)の相(そう)を現(げん)じて、内(うち)に虚仮(こ け)を懐(いだ)くことを得(え)ざれ。」と読むことができます。その場合には、 「外面(がい めん)には賢(かしこ)く善行(ぜん ぎょう)に励(はげ)む姿(すがた)を見(み)せ、心(こころ)の内(うち)には偽(いつわ)りを持(も)つことのないようにしなさい。」という意味になります。
 「頑張って善い行いに励み、悪い心を持たないようにしなさい。」 これは、私たちが普段教えられている道徳的な考え方にも通じるものでしょう。誰もが「その通りだ」とうなずくことのできる教えです。

 ところが、親鸞聖人は、この言葉をあえて逆の意味に読まれました。これは、単なる読み間違いではありません。大変な博識で、経典や注釈書から膨大な数の御文を引用されている親鸞聖人ですから、本来の読み方をご存じなかったはずはありません。それにもかかわらず、あえて読み方を変えられたのです。それは、なぜでしょうか。

 自分自身のありのままの姿を厳しく見つめたとき、どれほど清く正しく生きようと思っても、自分の心の中には、欲や執着(しゅう じゃく)、怒(いか)りや妬(ねた)みといった、さまざまな煩悩(ぼん のう)があります。「善(よ)い人間になろう」と思えば思うほど、その思いさえも自分を飾ることにつながってしまう…。親鸞聖人は、そんな自分自身の姿に気付かれたのでしょう。
 だからこそ、「心の中には偽りを抱えている自分が、外面だけは賢く善い人間であるかのように振る舞ってはいけない」と、この一文を読まれたのです。

 これは、「善い行いなど、偽善にすぎないのだから、しなくてもよい」ということではありません。もちろん、善い行いに励むことは大切です。
 しかし、善い行いをした自分を見て、「私は善い人間だ」と思い込んでしまった時、そこには自分自身の姿が見えなくなってしまう危うさがあります。

 人に親切にしたときは「自分は親切な人間だ」、誰かを許したときは「自分は心の広い人間だ」、人のために何かをしたときは「自分は立派な人間だ」と思っています。けれども、その一方で、誰にも見られていないところでは、腹を立てたり、人を妬んだり、自分の都合ばかりを優先したりする心を持っています。

 外から見える自分と、誰にも見えない自分の内面がありますが、私たちはたいてい外から見える自分を気にして、少しでも立派な人間に見られようと努める一方で、外から分からない心の中は、できるだけ見ないようにしているのではないでしょうか。

 しかし、親鸞聖人は、その見たくない自分から目をそらすことができませんでした。むしろ、仏道(ぶつ どう)を真剣に歩もうとすればするほど、自分の中にある愚かさや煩悩の深さに気づかされていったのでしょう。
 「こんな私ではだめだ」と絶望したかもしれません。ですが、自分の内面への絶望があったからこそ、「このような私だから、救いの目当てとしてはたらいてくださっている阿弥陀仏がおられる」とご本願の教えを聞き信じて、深い感謝と喜びをもって生きていかれたのだと思います。

 愚かな自分が「そのまま」で助けられていく阿弥陀仏のお慈悲の大きさよ…と、お示しくださっている先の一文の読み替えです。心に留めておきたい言葉であります。