令和7年4月2日(水)午後1時~
4月3日(木)午前10時~
布教:本山布教使 芳岡妙由 師
春季永代経法要は本山出役法座として勤めます。
本山出役法座とは、本山より任命された布教使が、各寺院に派遣され(出役)、布教にあたる法座です。
本年は、奈良県より吉岡妙由師が出役されます。
大切な聞法の機会ですので、どうぞお誘い合わせの上、ご参詣ください。
令和7年4月2日(水)午後1時~
4月3日(木)午前10時~
布教:本山布教使 芳岡妙由 師
春季永代経法要は本山出役法座として勤めます。
本山出役法座とは、本山より任命された布教使が、各寺院に派遣され(出役)、布教にあたる法座です。
本年は、奈良県より吉岡妙由師が出役されます。
大切な聞法の機会ですので、どうぞお誘い合わせの上、ご参詣ください。
令和7年3月18日(火)~20日(木・祝)
各日午後1時より
法話:住職自役
※20日(木)は午前11時より物故者追弔法要を勤修します
だんだんと日が長くなり、春が近づいてきたことを感じます。
東光寺では、春分の日までの3日間、彼岸法要を勤めます。
安心ある日暮らしを送っていくために、お念仏のいわれをたずねる聞法の機会を大切にして参りましょう。
ぜひお誘い合わせの上、お参りください。
なお、20日(木)は午前11時より令和6年度物故者追弔法要が勤修されます。物故者のご家族以外の方もお参り頂けます。
参詣の皆様には東光寺三宝の会より、御斎(おとき)が進上されますので、お召し上がり頂き、午後からのお彼岸法要にもお参りください。
先日、コンビニで買い物をしておりますと、杖をついて覚束ない足取りのおじいさんが店内に入ってきました。なにやらブツブツと呟きながら歩いておられましたが、突如、大きな声で叫んだかと思うと、前のめりに倒れてしまったのです。どうやら、「滑る、滑る」と呟きながら用心して歩いておられたようなのですが、杖も履いていた長靴も、底がゴムだったために、コンビニの床では滑り、敢え無く転倒してしまったのです。幸いにも、おじいさんは床に転がる寸前に身が翻って、滑り込むように倒れたために、身体のどこかを強くぶつけることがなくて、大事に至りませんでした。
その一部始終は私の目の前で起こったのですが、すぐに店員さんや他のお客さんも近くに寄ってきて、おじいさんが立ち上がるのを皆で支えました。店員さんはその後も、「任せてください」と言って、優しく付き添ってあげていました。おじいさんの怪我が無かったこともあり、見ず知らずの人同士の優しさや連帯感を感じて、久しぶりに心が温まる出来事となりました。
さて、ほとんどの人は、このように誰かが転んだ時には、傍観せずに手を差し伸べて助けようと思うはずです。そして、その瞬間は、誰も見返りなど考えていないでしょう。これは本能的か後天的に育てられるものか分かりませんが、私たち人間が持っている「他の人(仲間)を思いやる心」です。
しかし、よくよく考えると、私たちの「他人を想う心」とは、どこまで行っても不完全なものです。私たちは他人に手を差し伸べることは出来るのですが、その人の痛みや苦しみまで全く同じように感じることはできません。
上記の転んだおじいさんの身体の痛みや恥ずかしいという気持ちまでは共有することはできないのです。あくまでも自己の経験を通して「想像する」ことしかできません。それは悲しいかな、どんなに大切な人であろうとも完全に同じ立場、心境に立つことは決してできないという事実ではありますが、とは言え他の人の痛みや悲しみを想像するという行為は、私たちにとって非常に重要な営みであることは言うまでもありません。それがなければ、和やかで、円滑な社会は決して生まれません。
不徹底ではあるけれど、できるだけ他の人の想いに寄り添えるように努めたいものです。
ところで、仏教には「慈悲」という大切な言葉があります。他のいのちに対して楽を与え、苦を取り除きたい(抜苦与楽)という意味があり、これは上述のように私たち人間には完全になし得ず、仏さまの心と言うことができます。
この慈悲の心について、特に阿弥陀如来のお慈悲は「同体の慈悲」であると聞かせていただいたことがあります。
それは、いのちを共有するところにおきる「人の喜びを我が喜びとし、人の悲しみを我が悲しみとする」という「同事」の心であり、例えば、転んだ人が目の前にいたならば、手を差し伸べるよりも先に、同じように転び、痛みや恥ずかしさまでも真に分かち合っていこうとする心です。それは、「仏心とは、大慈悲これなり」(『観無量寿経』)とあるように、私たち人間の思慮をはるかに超えたまことの慈悲でありますから、「大慈悲」と表されます。
私の苦しみも悲しみも、私と同じように味わい分かってくださる存在がある・・・実に頼もしいことであります。
令和7年元日 午前9時~
昨年を振り返って、新しい一年をどのように「修め正して」いくか、たずねていくご縁です。まずは仏前に座して、お念仏と共に心あらたに過ごして参りましょう。
令和7年1月11日(土)
午前10時30分~法要と法話
正午より御斎(おとき)進上
午後1時~2時頃まで懇親会
午前中に法要を勤めた後、東光寺三宝会より御斎(昼食)を進上します。
御斎を召し上がっていただいた後、ゲームやクイズなどの懇親会を行う予定です。
どうそお誘い合わせてお参りください。
今年も残すところ一ヶ月となりました。一年の過ぎゆく早さを改めて感じているこの頃です。年明け早々の大地震により、未だご苦労されている方々が大勢いらっしゃることに想いを致し、復旧が一刻でも早く進むように願うばかりです。
今年は、パリオリンピックやアメリカメジャーリーグ、日本の大相撲など、スポーツを通して明るい気持ちにさせてもらうことが沢山ありました。しかし、一方で国際的には未だ収束が見通せない戦争、国内では不安定な政治情勢、SNSを通じた犯罪の増加、止まることのない物価高・・・など、不安を感じることの方がはるかに多かったような気がします。
世の中にそうした不安感が渦巻いているためか、我が権利とばかりに自己を主張し、人同士の「和」を一顧だにしないような、殺伐とした空気が、じわりじわりと浸食してきているように感じます。
自らの考えを他者に伝えることはもちろん必要なことでありますが、自己は他との関係性の中でしか存在し得ないのが道理ですから、他者を想う心を無くして、まことの自己主張など成り立たず、ただの独りよがりに過ぎません。
今回のタイトルの言葉は、親鸞聖人が作られた浄土和讃の一首です。
清風宝樹(しょうふうほうじゅ)をふくときは
いつつの音声(おんじょう)いだしつつ
宮商(きゅうしょう)和(わ)して自然(じねん)なり
清浄勲(しょうじょうくん)を礼(らい)すべし
宮と商とは、雅楽などの東洋音楽の五音(ごいん、この和讃では「いつつの音声」)という音階の中の要素です。西洋音楽の音階(ドレミ)で宮と商との関係を例えると、仮にハ長調で宮をドとすると商はレになり、これらの音を同時に出すと、ぶつかり合って聞こえる不協和音となり、調和することがありません。
しかし、阿弥陀仏の浄土の世界では、本来ぶつかりあうはずの不協和音でも調和しているのです。自分の音も相手の音も、決してぶつかり合うことなく美しく響き合っていくということです。
一つ一つの個がお互いを尊重し、全てが美しく調和していく浄土の世界を建立し、私たちを召喚し続けてくださっている阿弥陀仏のはたらきに帰依し、敬っていくべきだと親鸞聖人はお示しくださっています。
いまの私たちの世界は、ぶつかり合った音同士が互いを打ち消そうとして、より大きく強い音を出して不協和音ばかりが響いていく・・・そんな世の中に向かっているように思えてなりません。
人間同士がもっと柔らかく朗らかに生きていくためにどうすれば良いのか、私たちひとりひとりが親鸞聖人のお言葉を噛みしめていくべきでありましょう。
令和6年度の秋季永代経法要と納骨堂法要を次のとおり勤めます。
令和6年11月20日(水)午後1時〜
令和6年11月21日(木)午前10時〜
法話 住職自役
1日目は本堂で法要を務めてから、納骨堂法要を行います。
2日目は納骨堂法要の後、本堂で法要を務めます。
開始時間が異なりますので、ご注意ください。
先往く大切な方々を偲ぶ中で、南無阿弥陀仏のみ教えをたずね、いまを生きる私たちが、まことの拠り所を持っていくことができます。
私に届いている深い恩に気づき、報謝につとめて参りましょう。どうぞご参詣ください。
動物には、種の保存のために、子を護る母性本能を促すホルモンが分泌される仕組みがあり、それによって護るべき存在と排除すべき敵とが区別されるそうで、動物の親子の群れに、別の群れの個体が入って来ようとしたとき、それを排除しようとするのは、そうした脳の仕組み、つまり本能によるものだそうです。
人間も動物ですから、同じ仕組みを持っています。私たちは自分の家族と他人の家族とを当たり前に区別しますし、見方を広げれば、社会の中で自分に親しく仲の良い人たちと、そうではない人たちとを、区別しながら生活しています。これもまさに本能によってなされることでしょう。
そのことを表す言葉に、親鸞聖人がご和讃の中に用いられた「愛憎違順」という言葉があります。「意に順ずるものは愛し、違うものは憎む」という意味ですが、このことが本能によって為され、私たちが離れることの出来ない煩悩なのだとすれば、これはもはや当然のこととして、肯定されていくべきなのでしょうか?
私たちは動物であるとは言え、愛憎違順の心を「本能だから、煩悩だから」と、そのまま盛んにしてしまっては、なまじ人間は知恵を持っているだけに、他の動物よりもはるかにタチの悪い有様となってしまいます。同じ種の「人間」同士で、縄張り争いをし、争い傷つけ合う「戦争」の姿は、まさに動物の本能以上に煩悩を盛んにしている人間の愚かな姿そのものです。
はたして私たちが人間に生まれて来た甲斐とは何でしょうか?そうやって本能のままに生き、恨みをつのらせ、憎しみ合い、争いに勝利して一時の愉悦に浸ることなのでしょうか。
お釈迦様は、
「無慚愧はなづけて人と為さず、名づけて畜生と為す」
(我が身を省みて恥じる心のないものは人とは言えない。それは畜生と同じである。)
『涅槃経』
と仰っています。
人間は慚愧の心を持つことができます。自分を省みて、愚かな行動を恥じ、自分以外の存在を認めながら、手を差し伸べ助け合える生き方こそ、人間として生まれて来た甲斐があり、本当の喜びのある人生であると、教えてくださっているのではないでしょうか。
私たちの生きる世の中が、このまま畜生道や修羅道の世界へと染まっていかないように、お釈迦様の智慧ある言葉を皆が心に留め置かねばなりません。
パリオリンピックが始まり、どの競技でも連日手に汗握る勝負が繰り広げられています。
開会式では、各国の選手がセーヌ川を船に乗って登場しましたが、国を代表して、あの船に乗るということだけでも、これまで途方もない努力や苦労を重ねてきた結果だと言うのに、さらにこれから厳しい試合を勝ち抜いて、頂点を目指さなくてはならないというのですから、私のような凡人にとっては、雲上界の出来事のようです。選手の皆さんを尊敬するばかりです。
さて、そんな風にテレビの中の開会式の様子を眺めながら、
生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける
「生死の迷いの苦しみは海のように深く際限がない。その苦しみの海に、遙か昔から浮き沈みしている私たちを、阿弥陀仏の本願の船だけが、必ず乗せて、安楽の浄土へと導いてくださるのである。」
『浄土和讃』
という親鸞聖人の書かれた和讃のことをふと思い出しました。
阿弥陀様の本願のはたらきを、親鸞聖人は「ふね」に例えられていらっしゃるのですが、私が「オリンピック選手はすごいな、あんな風になれたらな」とどんなに願っても、開会式のあの船には乗ることは、まず不可能です。
しかし、阿弥陀様の本願の船には、オリンピック選手であろうとも、凡人の私であろうとも、等しく乗せて頂くことができます。
念仏を信じ称える者は、生まれ持った性格や才能も、生きてきた環境も、これまでしてきた行為も、全く異なっていても、一切の差別なく、等しく乗せて、必ずお浄土へと渡してくださるのが「弥陀弘誓のふね」だからです。
オリンピックの金メダルを獲得する喜びは、今生ではどうやっても私には得ることはできませんが、阿弥陀様の浄土の世界に呼び起こされて、「いのちの拠り所」を知る喜びは、私のような凡夫にも等しく与えられていることに、深く安堵させて頂くことであります。
東光寺では令和6年の「盂蘭盆会」(お盆の法要)を下記の日程で勤修します。
どうぞお誘い合わせの上、ご参詣ください。
8月15日(木)午後1時~
8月16日(金)午後1時~
法話:住職自役
浄土真宗のお盆は、先祖の追善供養を一番の目的に勤めるのではありません。
先往く人を想い大切にしながらも、今を生きる「私たち自身」が、亡き人を縁として仏前に手を合わせる中で、自らが本当に頼みとするべき拠り所を訪ねていくためのご縁です。
私たちがまことの拠り所とすべきは、阿弥陀如来のご本願であると、親鸞聖人は教えてくださっています。
このご縁に、ご本願に誓われている「念仏」のいわれをたずねて参りましょう。
令和6年度のうどん講の法要を次のとおり勤めます。うどん講では御斎(おとき)に、うどんをご用意します。
お昼に御斎を召し上がっていただいた後、法要を勤めます。ぜひお誘い合わせの上、お参詣ください。
6月19日(水)、20日(木)午後1時~
(御斎は正午~)