挨拶

 先頃、町内の子どもたちの登校を見守る交通補導の役があたり、通学路に立っていました。自分から「おはようございます」と元気よく挨拶できる子、こちらから声をかけると挨拶する子、素通りしていく子、子どもたちの様子はそれぞれ違いましたが、やはり大きな声で挨拶できると気持ちが良いものです。挨拶できなかった子は、「どうしたのかな?体調が良くないのかな?」と心配になります。

 挨拶は、もともと仏教の禅の教えで用いられていた言葉だそうです。「挨」も「拶」も、「押す・迫る」という意味があり、群衆が他を押しのけて進む様子を表し、それを禅では、相手の悟りの浅深をはかるために「問答をしかけること」の意味に用いたそうです。それが転じて、応答や返礼などの意味に用いられるようになり、出遭いや別れのときの言葉や動作のことを一般に「挨拶」と言うようになったそうです。

 人間は一人だけで生きているのではなく、他の人との交流があって生活が成り立っていきます。その時に、お互いに相手の存在を認めあっていく最初の行動が「挨拶」です。

 挨拶は社会生活の基本になるとても大切なものだと言えますので、子どもたちには、ぜひこれからも元気よく挨拶できるように育っていってほしいと思いますし、ともすれば子どもより挨拶できない大人に出会うことがありますが、私たち大人も挨拶の大切さを改めて考えてみなくてはいけませんね。

造花

 まもなく春のお彼岸を迎えます。そろそろ仏前のお供えやお花を買いに行かなくてはいけませんね。

 さて、冬の間お寺の本堂は外と同じくらい気温が下がり、生花だと半日で凍ってしまうため、日頃は造花をお飾りしています。

 造花の中には、いかにも造花という感じのものと、一目では見分けがつかないような精巧なものがあります。その違いは何なのかと比べてみると、そもそも材質が違うということもあるのですが、それと共に、精巧な作りの方には、葉や花の色・形が異なるものが混じっていることで、リアルさが感じられます。
 いかにも…という造花は、妙な光沢に加えて、葉や花が全部同じで不自然です。

 自分が育てている観葉植物を見てみると、きれいな葉ばかりでなく形がいびつなもの、黄色くなって落ちそうなもの、出てきたばかりの小さなもの、穴の開いたもの、黒ずんだもの、など見た目の違う葉が沢山入り混じっています。
 機械で大量生産する造花は、手間をかけられませんから、そのような葉や花の違いが表現しきれないのでしょう。
 全てが同じではなく、大きさや形、色、新旧、様々な違いを持ったものが、共存しているのが本当の自然の姿なのだと気付かされます。

 私たちの人間も自然の一部です。違いがあることが本当の姿なのです。
 自分と違うから、少数派だからという理由で、拒絶し排除するのではなく、あらゆる人が必要な存在として認められ、それぞれが輝いている「本当」の世の中を目指していかねばなりませんね。

春季永代経・納骨堂法要

令和6年4月2日午後1時~
令和6年4月3日午前10時~
布教:香川県妙楽寺住職 川田慈恵 師

春季永代経法要は本山出役法座として勤められます。
本山出役法座とは、本山より任命された布教使が、各寺院に派遣され(出役)、布教にあたる法座です。
本年は、香川県より川田慈恵師が出役されます。
大切な聞法の機会ですので、どうぞお誘い合わせの上、ご参詣ください。

春のお彼岸法要

令和6年3月18日(月)~20日(水・祝)
各日午後1時より
法話:住職自役
※20日(水)は午前11時より物故者追弔法要を勤修

だんだんと日が長くなり、春が近づいてきたことを感じます。
東光寺では、春分の日までの3日間、彼岸法要を勤めます。
安心ある日暮らしを送っていくためにも、お念仏のいわれをたずねる聞法の機会を大切にして参りましょう。
ぜひお参りください。

なお、20日(水)は午前11時より令和5年度物故者追弔法要が勤修されます。物故者のご家族以外もお参り頂けます。
参詣の皆様には東光寺三宝の会より、御斎(おとき)が進上されますので、ぜひお召し上がり頂き、午後からのお彼岸法要にもお参りください。

確かなこと

 まとまった降雪が数日間続き、境内の吹き溜まりの除雪に追われる日々がようやく一段落しました。
 道内が大荒れになった先週木曜日、私は札幌出張中で、その日の内に飛行機で帰ってくる予定だったのですが、荒天により飛行機をはじめJRもバスも全て朝から運休となり、翌日の飛行機に振り替えて帰ってくることとなりました。
 翌金曜日は札幌方面は比較的穏やかでしたが、道東方面がいまだ荒れた天候で、私が乗る飛行機は、女満別空港が天候不良で着陸できない時は新千歳空港まで引き返す、という条件付き運航のもと出発しました。1時間ほどの遅れがあったものの、何とか出発できて「やれやれ…」と思いつつも、心中は穏やかではありません。引き返すということになっては、再び面倒なことになるので、「どうか無事に到着してほしい」とただただ願うばかりでした。

 さて…約1時間後、おかげさまで、私の乗った飛行機は風に煽られながらも、無事、女満別空港に到着しました。着陸の瞬間に感じた安心感はなかなか言葉では表現しきれません

 いつもなら間違いなく到着すると信じて乗っている飛行機が、この度は「そうではなかった」ために、私の心には不安が襲いました。考えてみれば、飛行機ばかりでなく、私たちは日頃、根拠のない「確かさ」を持って、「大丈夫だろう」と勝手に信じ込んで日々の生活を送っていますが、本当は私たちの生きる世の中は、「不確か」なことばかりなはずです。
 私たち人間の心が、そもそも不実であり不確かなのですから、その人間が作り出した世の中のものごとで、絶対と言えることなど到底ありえないでしょう。

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします

「煩悩にまみれた凡夫である我々、そして燃え落ちる家のようにはかない無常の世の中は、あらゆることが、空虚で偽りに満ちており、真実であることはない。その中で、阿弥陀仏の本願念仏のみが、ただ一つの本当のことなのだ。」

『歎異抄』後序

との親鸞聖人の言葉が響きます。

 不確かさばかりの人の世にあって、こればかりは間違いないと阿弥陀仏の本願念仏を味わってゆくことができる「安心感」が、そこにあります。
 不確かな私たちの人生の中に、ただひとつ「確かなこと」を頂いている喜びを教えてくださっています。

世の中安穏なれ

 わが身の往生、一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために、御念仏、こころにいれてもうして、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれと、おぼしめすべし

(仏の教えに出会って、みずからの身の救いが解決したと思う人は、仏のご恩に報いるためにお念仏を、心をこめて称え、「世の中が安らかで平穏であるように、仏法がひろまるように」と、お考えになるのがよいのです。)

『親鸞聖人御消息集(広本)』

 今年も残すところ、あと僅かとなりました。

 近年は、お正月を迎えても、若い時のような高揚感のような感覚よりも、歳月の重さを感じることの方が多くなりました。

 さて、私たちはお正月には「あけましておめでとう」という挨拶を交わします。
 よくよく考えてみると、新年を迎えたことをおめでとうと喜べるのは、実に有り難いことであったと気付かされます。

 社会が安定していること。
 命の心配がないこと。
 食べることに不自由しないこと。
 暖かい場所で寝られること。
 孤独の寂しさがないこと。

 そうした恵まれた環境にあってこそ、新年を喜ぶことができるのでしょう。
 逆を言えば、世の中では、それがままならない状況の人たちが、今この時も大勢いるのです。 
 誰もが穏やかに新年を迎えられることを願っているのに、世の中では、人間自身の「エゴ」によって、争い、苦しみ悩みながら、今日一日さえも危うい命が無数に存在しているわけです。

 私たちは、自分の都合こそ善悪の判断基準とし、都合の悪いものは排除しようとします。ですから世の中から争いが止むことがありません。実に哀しく、空しいことです。

 いま私たちがなすべきことは、阿弥陀仏の真実の智慧を拠り所として生きることです。そして、煩悩を抱えた凡夫としての自分自身の姿を知ることです。その中で、感謝と自省を持ち、世の中安穏なれと願う、まことの人間としての生き方が与えられてくるのではないでしょうか。

 

新年のおまいり

【修正会】のご案内

令和6年元日 午前9時~

新年のはじめに、仏前にご挨拶し、心あらたに過ごして参りましょう。

【はつまいり】のご案内

令和6年1月14日(日)
午前10時30分~法要と法話
正午より御斎(おとき)進上
午後1時~2時頃まで懇親会

午前中に法要を勤めた後、東光寺三宝会より御斎を進上します。
御斎を召し上がっていただいた後、ゲームやクイズなどの懇親会を行う予定です。
どうそお誘い合わせてお参りください。

サウナにて

 私は比較的サウナ好き。週に1度は近場のサウナでととのっています。出張で宿泊する時などは、必ずサウナ付きのホテルを選んで、これまた朝からととのっています。

 さて、先日のこと。いつものようにサウナを利用していると、60代とおぼしき男性が入ってまいりました。その人は自前のサウナマットは持っているのですが、タオルは持っていません。タオルがなければ、当然ながら流れた汗を受け止めるものはマット以外無いので、床はびしょぬれになります。その男性は、そのことを全く気にするそぶりも無く、サウナを堪能している様子。
 うーん・・・サウナ好きとしては、残念な気持ちです。
 サウナで汗が垂れて床が濡れるのは当然です。しかしながら、少しでもタオルで受け止めて、次の人がなるべく不快にならないように気遣ってほしいものです。

 「温泉に来てもタオルを持って入らない人もいるんだな…脱衣所もびしょぬれ…?」などと想いを巡らせている内に、今度は若い3人組が入ってきました。賑やかにおしゃべりをしています。せまいサウナ室内だから、ちょっと騒がしいです。しかし、その中の一人がサウナから出るときに、自分が座っていたところや足元の汗を、持っていたタオルで、さっと拭き取って行ったのです。
 ちょっとやかましかったけれど、そんなことが吹き飛ぶくらい感心しました。

 「おそらく、この若者の3倍近くは生きているであろうタオルの無いオジさんよ、この姿を見て、何かを感じておくれ…」と願いました。私も、その若者を見習って、自分の座っていた場所を見返してから出ることを心がけるようにしました。

 自分の行動を省みて、他の人のことを気遣えるということは、年齢が問題ではないのですね。日頃の心がけと習慣なのです。

 何事につけても、つい自分勝手に行動してしまう自分がいます。日々の在り方を省みる姿勢を持って生きたいものだと、若者の姿に学ばせて頂いたことであります。

秋季永代経・納骨堂法要

令和5年度の秋季永代経法要と納骨堂法要を次のとおり勤めます。

令和5年11月20日(月)午後1時〜
令和5年11月21日(火)午前10時〜

法話 住職自役

1日目は本堂で法要を務めてから、納骨堂法要を行います。
2日目は納骨堂法要の後、本堂で法要を務めます。
開始時間が異なりますので、ご注意ください。

 先往く大切な方々のおかげによって、今を生きる私達が南無阿弥陀仏のみ教えに出会い、まことの拠り所としていくことができるのです。
 深い恩を想い、感謝の法要を勤めましょう。どうぞご参詣ください。

自分を律する

 ラグビーワールドカップの決勝トーナメントが始まり、白熱した試合が続いています。日本が予選リーグを突破できなかったのは残念ですが、ベスト8に進んだ各国のプレーは、力強く速く華やかで、さすがと思える見応えのある試合を見せてくれます。 
 準々決勝の4試合はいずれも僅差のスコアで勝負を分けており、どちらのチームが勝ってもおかしくないような好試合ばかりでした。それ故に、負けた側は、大変悔しい思いをしたのではないでしょうか。
 しかし、試合後の各国のラグビー選手たちは、負けた側はその悔しさをぐっとこらえ、ノーサイドの精神に則って、相手チームの選手を讃えることを忘れません。反対に、勝ったチームも決して奢らず、必ず相手チームを讃えます。勝者も敗者も共に輝いているその場面は、いつ見ても心を打たれるのです。

 また、競技は全く別物ですが、日本国内では先日、将棋の藤井聡太さんが史上初の八冠を成し遂げ、大きなニュースとなりました。将棋においては、勝敗が決した後に、お互いが対局を振り返る「感想戦」というものがあるそうです。初めて感想戦の存在を知った時、将棋をしない私は、「試合で負けた後に、悔しさを押し殺して対局を振り返ることなんて、よく出来るな…」と思ったものです。
 これもラグビーのノーサイド精神に通じるものがあり、お互いに全力で戦ったからこそ、負けた方は胸を張って勝者を讃え、勝った方も決して奢らず、相手を認めることが出来るのでしょう。

 必ず勝者と敗者が生まれるこうした勝負の世界の中で、常に自らの心を律し、勝敗に関わらず相手を認めていくということは本当に難しいことだと思います。そのことが出来るからこそ一流のプレイヤーとなれるのかもしれませんね。

 さて、私たちは、ともすれば自分の望みに反することがあれば、そっぽを向き、自分の方が正しいのだから嫌味の一つでも言ってやろうという慢心を抱えていないでしょうか。

邪見驕慢悪衆生
(よこしまな考え方や間違ったものの見方をして、おごり、たかぶりの中で、生きている我ら)

『正信念仏偈』

との親鸞聖人の言葉が胸に刺さります。
 自分の心を律し、省みながら、互いが認め合えるような社会を実現していきたいですね。