根を養えば樹は自ら育つ

先日、某テレビ番組で特集されていたのですが、近頃「盆栽」が流行しているそうですね。日本のみならず、特にヨーロッパ圏を中心として、世界中で愛好家が増えており、ビジネス面でも規模が拡大しているようです。

某番組内では、盆栽を扱う新進気鋭の会社の代表が登場し、盆栽を紹介していましたが、今までの「オジさん趣味」的なイメージから、盆栽を見て「かっこいいな」と思えるようなアートとして、新たな価値観を提供することに成功していたように感じます。

私は盆栽にチャレンジしたことがありませんが、観葉植物好きの人間としては、非常に興味がそそられた放送でした。

その代表が言った、「盆栽は根が大事なのだ。見えない根をしっかりと育てるからこそ、目に見える幹の部分が美しくなるのだ」という言葉にうなずきました。

私の育てている観葉植物も全くその通りです。根がしっかり張っていれば、北海道の冬の寒さで葉っぱが全て落ちてしまっても、次の春には新しい葉がつき、元通りになります。

「見えないところこそ大切に育てねばならない」ということは、私たち人間そのものにも、当てはまる言葉でしょう。
どんなにお金をかけ、着飾ったとしても、自らの心根が育っていなければ、虚飾にすぎないでしょう。逆を言えば、何も飾らなくとも、心根の美しさは自然と表面に現れてくるように思います。

今回のタイトルは、浄土真宗の僧侶であり、初等教育を大切にし、「いのちの教育」の実践者であった東井義雄先生が残された言葉です。私たちは土台となる「根」を養っていくなかで、その生き様や人間性が自然と育まれていくということでありましょう。
植物は、水と養分と温度によって根が育っていきますが、私たち人間は「根」を養うために教えが必要なのです。

仏教は、我が身の在り方を深く見つめ、自分勝手な生き方を反省し、深い恩を知り、おかげさまと感謝できる心根を育てていく教えです。せっかく頂いた一度きりの人生です。仏さまの教えに耳を傾け、太く深い根を養っていきたいものです。

報恩講

 今年も残す所2ヶ月少々となりました。来月11月は、私たち真宗門徒が大切にしている宗祖親鸞聖人報恩講が、京都の本山興正寺で厳修されます。
 報恩講とは、親鸞聖人のご命日の法要です。言うなれば私たちが日頃お勤めする有縁の方の一周忌や三回忌などのご法事と同じです。親鸞聖人は旧暦の1262年11月28日がご命日と伝えられていますので、今年は764回忌のご法事ということになるでしょうか。
 末寺では、本山での御正忌報恩講の日程から外して報恩講を勤めますので、東光寺では8月に勤めさせていただいたところです。

 さて、私たちがご法事を勤めることの意味は、先往く人を偲ぶ中で、仏縁に出遇ったことを喜び、私たちに残してくださった御恩に想いを致すことです。その中で、報謝の心を育み、この人生を喜び歩ませてもらうことが大切なのです。
 ご法事は、今を生きる私たちのためにこそ勤められ、それは亡き人が残してくださった勝縁であると味わっていかねばならないでしょう。

 親鸞聖人の御命日法要である報恩講も、同じ事が言えます。自分がお念仏の御法に出遇えた喜びと、そのご縁を結んでくださった親鸞聖人の深い御恩に想いを致してゆく法要です。
 しかし、よくよく省みると、恥ずかしながら、日々の仕事や生活に追われて慌ただしく過ごす中で、その御恩などすっかり忘れ、当たり前のように生きている自分がいます。
 この度の本山報恩講では、式務員(お堂で勤行を務める役職)として、4日間お勤めさせていただきますので、改めて自分の姿勢を省みて、宗祖や先達の御恩を想いながら、心を込めて務めさせて頂きたいと思います。

 本山興正寺の報恩講は24日からYouTubeでライブ配信されます。ぜひオンラインでご参拝ください。
本山興正寺チャンネル – YouTube

先日、知床方面に出掛けた際、海岸線を車で走っていると、海面に陽光が反射して、とても美しく、遠い水平線まで広がる雄大さと相まって、しばし車を止めて眺めていたくなる風景でした。しかし、7月30日に津波警報が発令された際は、東北の大震災の時にテレビで見た、現実とは思えないような光景が思い返され、美しかった海が大変恐ろしい存在にも思えました。

命を育み、美しく豊かな恵みの海も、時に荒れ狂い人智の及ばぬ自然の脅威として海も、どちらも同じ海の本質であり、その二面性故に人間は海への畏敬の念を絶やさないのかもしれません。

さて、私たちの宗祖である親鸞聖人は、著述の中に、「海」のたとえを、非常に多く使用されています。京都に生まれ、比叡の山で長く修行された親鸞聖人が、初めて海をご覧になったのは、流罪となって越後に向かわれた途中だったのでしょうか。琵琶湖よりも遙かに大きな日本海の大海原を見て、どれほどの衝撃や感動を覚えられたことでしょうか。その心境が、沢山の海の譬えとなって表れているのかもしれませんが、親鸞聖人の海の使用例にも、次のように二つの側面があります。

一つには、私たち凡夫の世界を海にたとえたもの(難度海、群生海、愛欲の広海、生死の苦海など)

二つには、阿弥陀仏の働きを海にたとえたもの(弥陀本願海、功徳大宝海、大智願海、不可思議の徳海など)

親鸞聖人にとっても「海」とは、人間の苦悩を象徴するような厳しく度し難い存在としての海と、十方世界の衆生を摂取し続けようとする阿弥陀仏の慈悲のように大きく深い海として、二面性を持って受け入れられていたのでしょう。
しかし、それらは決して別個のものとして表現されているのではありません。
煩悩と雑毒の善にまみれながら、荒れ狂う海の中で群れて漂うことしかできぬ凡夫が、ひとたび阿弥陀仏の本願に身を任せたならば、智慧と慈悲に満たされた温かく穏やかな海に浮かび、一人一人が必ず仏と成る身へと転ぜられ、輝いていくことが出来るのだという、阿弥陀仏の本願と私たち凡夫の決して離れることのない関係性が示されているように思います。

一粒一滴みなご恩

一粒一滴みなご恩 不足を言ってはもったいない
感謝でおいしくいただきましょう いただきます

真宗興正派の食前の言葉です。私が子どもの頃から食事の前に手を合わせて、口にしてきた言葉です。
昨今の米の価格高騰による騒動を通じた様々な報道の中で、米農家の方々がいかに苦労してお米を栽培し、それを私たちが頂いていたのかということを改めて知り、この食前の言葉の持つ意味をかみしめました。

「米などいつでも買える」「あって当たり前」と考えている自分がいましたが、その当たり前とは、米一粒にも、たくさんの「おかげさま」が働いてくださっていることに、全く眼が向いていなかったということです。「一粒一滴・・・」と言っていたのは、まさに口先だけであったと恥ずかしく思うことです。

私たちは古来、仏前には、まずお仏飯をお供えしてきました。それは、お米が私たち日本人の主食であり、私たちにとって最も大切な糧を仏さまに最初に供え、敬い讃える意味があるからです。しかし、現代は飽食の時代となり、米の消費量が落ち、ご飯以外の様々な食べ物を求めるようになりました。その中で、すっかりお仏飯の意味合いさえも見失ってしまっている私たちの姿があるように思います。

この度の米騒動を通して、多くの人が、日本人は米によって生きてきた民族であるということを再認識させられ、その糧をいかに大切にしていかねばならないかを考えさせられたのではないでしょうか。実は、ずっと昔から、毎朝のお仏飯を通して、そのことを教わり続けていたはずなのですが、そのことに気付かず、逆に不足ばかりを言っていたもったいない私の姿がありました。

米の一粒にも汁の一滴にも仏様が宿る・・・この時代に生きる私たちが改めて心に留め置かなくてはならない大切な考え方です。

同体の慈悲

 先日、コンビニで買い物をしておりますと、杖をついて覚束ない足取りのおじいさんが店内に入ってきました。なにやらブツブツと呟きながら歩いておられましたが、突如、大きな声で叫んだかと思うと、前のめりに倒れてしまったのです。どうやら、「滑る、滑る」と呟きながら用心して歩いておられたようなのですが、杖も履いていた長靴も、底がゴムだったために、コンビニの床では滑り、敢え無く転倒してしまったのです。幸いにも、おじいさんは床に転がる寸前に身が翻って、滑り込むように倒れたために、身体のどこかを強くぶつけることがなくて、大事に至りませんでした。
 その一部始終は私の目の前で起こったのですが、すぐに店員さんや他のお客さんも近くに寄ってきて、おじいさんが立ち上がるのを皆で支えました。店員さんはその後も、「任せてください」と言って、優しく付き添ってあげていました。おじいさんの怪我が無かったこともあり、見ず知らずの人同士の優しさや連帯感を感じて、久しぶりに心が温まる出来事となりました。

 さて、ほとんどの人は、このように誰かが転んだ時には、傍観せずに手を差し伸べて助けようと思うはずです。そして、その瞬間は、誰も見返りなど考えていないでしょう。これは本能的か後天的に育てられるものか分かりませんが、私たち人間が持っている「他の人(仲間)を思いやる心」です。
 しかし、よくよく考えると、私たちの「他人を想う心」とは、どこまで行っても不完全なものです。私たちは他人に手を差し伸べることは出来るのですが、その人の痛みや苦しみまで全く同じように感じることはできません。
 上記の転んだおじいさんの身体の痛みや恥ずかしいという気持ちまでは共有することはできないのです。あくまでも自己の経験を通して「想像する」ことしかできません。それは悲しいかな、どんなに大切な人であろうとも完全に同じ立場、心境に立つことは決してできないという事実ではありますが、とは言え他の人の痛みや悲しみを想像するという行為は、私たちにとって非常に重要な営みであることは言うまでもありません。それがなければ、和やかで、円滑な社会は決して生まれません。
 不徹底ではあるけれど、できるだけ他の人の想いに寄り添えるように努めたいものです。

 ところで、仏教には「慈悲」という大切な言葉があります。他のいのちに対して楽を与え、苦を取り除きたい(抜苦与楽)という意味があり、これは上述のように私たち人間には完全になし得ず、仏さまの心と言うことができます。
 この慈悲の心について、特に阿弥陀如来のお慈悲は「同体の慈悲」であると聞かせていただいたことがあります。
 それは、いのちを共有するところにおきる「人の喜びを我が喜びとし、人の悲しみを我が悲しみとする」という「同事」の心であり、例えば、転んだ人が目の前にいたならば、手を差し伸べるよりも先に、同じように転び、痛みや恥ずかしさまでも真に分かち合っていこうとする心です。それは、「仏心とは、大慈悲これなり」(『観無量寿経』)とあるように、私たち人間の思慮をはるかに超えたまことの慈悲でありますから、「大慈悲」と表されます。
 私の苦しみも悲しみも、私と同じように味わい分かってくださる存在がある・・・実に頼もしいことであります。

宮商和して自然なり

 今年も残すところ一ヶ月となりました。一年の過ぎゆく早さを改めて感じているこの頃です。年明け早々の大地震により、未だご苦労されている方々が大勢いらっしゃることに想いを致し、復旧が一刻でも早く進むように願うばかりです。

 今年は、パリオリンピックやアメリカメジャーリーグ、日本の大相撲など、スポーツを通して明るい気持ちにさせてもらうことが沢山ありました。しかし、一方で国際的には未だ収束が見通せない戦争、国内では不安定な政治情勢、SNSを通じた犯罪の増加、止まることのない物価高・・・など、不安を感じることの方がはるかに多かったような気がします。

 世の中にそうした不安感が渦巻いているためか、我が権利とばかりに自己を主張し、人同士の「和」を一顧だにしないような、殺伐とした空気が、じわりじわりと浸食してきているように感じます。

 自らの考えを他者に伝えることはもちろん必要なことでありますが、自己は他との関係性の中でしか存在し得ないのが道理ですから、他者を想う心を無くして、まことの自己主張など成り立たず、ただの独りよがりに過ぎません。

 今回のタイトルの言葉は、親鸞聖人が作られた浄土和讃の一首です。

清風宝樹(しょうふうほうじゅ)をふくときは
いつつの音声(おんじょう)いだしつつ
宮商(きゅうしょう)和(わ)して自然(じねん)なり
清浄勲(しょうじょうくん)を礼(らい)すべし

 宮と商とは、雅楽などの東洋音楽の五音(ごいん、この和讃では「いつつの音声」)という音階の中の要素です。西洋音楽の音階(ドレミ)で宮と商との関係を例えると、仮にハ長調で宮をドとすると商はレになり、これらの音を同時に出すと、ぶつかり合って聞こえる不協和音となり、調和することがありません。
 しかし、阿弥陀仏の浄土の世界では、本来ぶつかりあうはずの不協和音でも調和しているのです。自分の音も相手の音も、決してぶつかり合うことなく美しく響き合っていくということです。 
 一つ一つの個がお互いを尊重し、全てが美しく調和していく浄土の世界を建立し、私たちを召喚し続けてくださっている阿弥陀仏のはたらきに帰依し、敬っていくべきだと親鸞聖人はお示しくださっています。

 いまの私たちの世界は、ぶつかり合った音同士が互いを打ち消そうとして、より大きく強い音を出して不協和音ばかりが響いていく・・・そんな世の中に向かっているように思えてなりません。
 人間同士がもっと柔らかく朗らかに生きていくためにどうすれば良いのか、私たちひとりひとりが親鸞聖人のお言葉を噛みしめていくべきでありましょう。

人間甲斐

 動物には、種の保存のために、子を護る母性本能を促すホルモンが分泌される仕組みがあり、それによって護るべき存在と排除すべき敵とが区別されるそうで、動物の親子の群れに、別の群れの個体が入って来ようとしたとき、それを排除しようとするのは、そうした脳の仕組み、つまり本能によるものだそうです。

 人間も動物ですから、同じ仕組みを持っています。私たちは自分の家族と他人の家族とを当たり前に区別しますし、見方を広げれば、社会の中で自分に親しく仲の良い人たちと、そうではない人たちとを、区別しながら生活しています。これもまさに本能によってなされることでしょう。

 そのことを表す言葉に、親鸞聖人がご和讃の中に用いられた「愛憎違順」という言葉があります。「意に順ずるものは愛し、違うものは憎む」という意味ですが、このことが本能によって為され、私たちが離れることの出来ない煩悩なのだとすれば、これはもはや当然のこととして、肯定されていくべきなのでしょうか?

 私たちは動物であるとは言え、愛憎違順の心を「本能だから、煩悩だから」と、そのまま盛んにしてしまっては、なまじ人間は知恵を持っているだけに、他の動物よりもはるかにタチの悪い有様となってしまいます。同じ種の「人間」同士で、縄張り争いをし、争い傷つけ合う「戦争」の姿は、まさに動物の本能以上に煩悩を盛んにしている人間の愚かな姿そのものです。

 はたして私たちが人間に生まれて来た甲斐とは何でしょうか?そうやって本能のままに生き、恨みをつのらせ、憎しみ合い、争いに勝利して一時の愉悦に浸ることなのでしょうか。

 お釈迦様は、

「無慚愧はなづけて人と為さず、名づけて畜生と為す」

(我が身を省みて恥じる心のないものは人とは言えない。それは畜生と同じである。)

『涅槃経』

と仰っています。
 人間は慚愧の心を持つことができます。自分を省みて、愚かな行動を恥じ、自分以外の存在を認めながら、手を差し伸べ助け合える生き方こそ、人間として生まれて来た甲斐があり、本当の喜びのある人生であると、教えてくださっているのではないでしょうか。

 私たちの生きる世の中が、このまま畜生道や修羅道の世界へと染まっていかないように、お釈迦様の智慧ある言葉を皆が心に留め置かねばなりません。

のせてかならずわたしける

 パリオリンピックが始まり、どの競技でも連日手に汗握る勝負が繰り広げられています。
 開会式では、各国の選手がセーヌ川を船に乗って登場しましたが、国を代表して、あの船に乗るということだけでも、これまで途方もない努力や苦労を重ねてきた結果だと言うのに、さらにこれから厳しい試合を勝ち抜いて、頂点を目指さなくてはならないというのですから、私のような凡人にとっては、雲上界の出来事のようです。選手の皆さんを尊敬するばかりです。

さて、そんな風にテレビの中の開会式の様子を眺めながら、

生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば

弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける

「生死の迷いの苦しみは海のように深く際限がない。その苦しみの海に、遙か昔から浮き沈みしている私たちを、阿弥陀仏の本願の船だけが、必ず乗せて、安楽の浄土へと導いてくださるのである。」

                          『浄土和讃』

という親鸞聖人の書かれた和讃のことをふと思い出しました。

 阿弥陀様の本願のはたらきを、親鸞聖人は「ふね」に例えられていらっしゃるのですが、私が「オリンピック選手はすごいな、あんな風になれたらな」とどんなに願っても、開会式のあの船には乗ることは、まず不可能です。
 しかし、阿弥陀様の本願の船には、オリンピック選手であろうとも、凡人の私であろうとも、等しく乗せて頂くことができます。

 念仏を信じ称える者は、生まれ持った性格や才能も、生きてきた環境も、これまでしてきた行為も、全く異なっていても、一切の差別なく、等しく乗せて、必ずお浄土へと渡してくださるのが「弥陀弘誓のふね」だからです。

 オリンピックの金メダルを獲得する喜びは、今生ではどうやっても私には得ることはできませんが、阿弥陀様の浄土の世界に呼び起こされて、「いのちの拠り所」を知る喜びは、私のような凡夫にも等しく与えられていることに、深く安堵させて頂くことであります。

挨拶

 先頃、町内の子どもたちの登校を見守る交通補導の役があたり、通学路に立っていました。自分から「おはようございます」と元気よく挨拶できる子、こちらから声をかけると挨拶する子、素通りしていく子、子どもたちの様子はそれぞれ違いましたが、やはり大きな声で挨拶できると気持ちが良いものです。挨拶できなかった子は、「どうしたのかな?体調が良くないのかな?」と心配になります。

 挨拶は、もともと仏教の禅の教えで用いられていた言葉だそうです。「挨」も「拶」も、「押す・迫る」という意味があり、群衆が他を押しのけて進む様子を表し、それを禅では、相手の悟りの浅深をはかるために「問答をしかけること」の意味に用いたそうです。それが転じて、応答や返礼などの意味に用いられるようになり、出遭いや別れのときの言葉や動作のことを一般に「挨拶」と言うようになったそうです。

 人間は一人だけで生きているのではなく、他の人との交流があって生活が成り立っていきます。その時に、お互いに相手の存在を認めあっていく最初の行動が「挨拶」です。

 挨拶は社会生活の基本になるとても大切なものだと言えますので、子どもたちには、ぜひこれからも元気よく挨拶できるように育っていってほしいと思いますし、ともすれば子どもより挨拶できない大人に出会うことがありますが、私たち大人も挨拶の大切さを改めて考えてみなくてはいけませんね。

造花

 まもなく春のお彼岸を迎えます。そろそろ仏前のお供えやお花を買いに行かなくてはいけませんね。

 さて、冬の間お寺の本堂は外と同じくらい気温が下がり、生花だと半日で凍ってしまうため、日頃は造花をお飾りしています。

 造花の中には、いかにも造花という感じのものと、一目では見分けがつかないような精巧なものがあります。その違いは何なのかと比べてみると、そもそも材質が違うということもあるのですが、それと共に、精巧な作りの方には、葉や花の色・形が異なるものが混じっていることで、リアルさが感じられます。
 いかにも…という造花は、妙な光沢に加えて、葉や花が全部同じで不自然です。

 自分が育てている観葉植物を見てみると、きれいな葉ばかりでなく形がいびつなもの、黄色くなって落ちそうなもの、出てきたばかりの小さなもの、穴の開いたもの、黒ずんだもの、など見た目の違う葉が沢山入り混じっています。
 機械で大量生産する造花は、手間をかけられませんから、そのような葉や花の違いが表現しきれないのでしょう。
 全てが同じではなく、大きさや形、色、新旧、様々な違いを持ったものが、共存しているのが本当の自然の姿なのだと気付かされます。

 私たちの人間も自然の一部です。違いがあることが本当の姿なのです。
 自分と違うから、少数派だからという理由で、拒絶し排除するのではなく、あらゆる人が必要な存在として認められ、それぞれが輝いている「本当」の世の中を目指していかねばなりませんね。