ひと言法話

毎月一つか二つ、日々の生活の中での法味をお伝えして参ります。


  • のせてかならずわたしける

     パリオリンピックが始まり、どの競技でも連日手に汗握る勝負が繰り広げられています。
     開会式では、各国の選手がセーヌ川を船に乗って登場しましたが、国を代表して、あの船に乗るということだけでも、これまで途方もない努力や苦労を重ねてきた結果だと言うのに、さらにこれから厳しい試合を勝ち抜いて、頂点を目指さなくてはならないというのですから、私のような凡人にとっては、雲上界の出来事のようです。選手の皆さんを尊敬するばかりです。

    さて、そんな風にテレビの中の開会式の様子を眺めながら、

    生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば

    弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける

    「生死の迷いの苦しみは海のように深く際限がない。その苦しみの海に、遙か昔から浮き沈みしている私たちを、阿弥陀仏の本願の船だけが、必ず乗せて、安楽の浄土へと導いてくださるのである。」

                              『浄土和讃』

    という親鸞聖人の書かれた和讃のことをふと思い出しました。

     阿弥陀様の本願のはたらきを、親鸞聖人は「ふね」に例えられていらっしゃるのですが、私が「オリンピック選手はすごいな、あんな風になれたらな」とどんなに願っても、開会式のあの船には乗ることは、まず不可能です。
     しかし、阿弥陀様の本願の船には、オリンピック選手であろうとも、凡人の私であろうとも、等しく乗せて頂くことができます。

     念仏を信じ称える者は、生まれ持った性格や才能も、生きてきた環境も、これまでしてきた行為も、全く異なっていても、一切の差別なく、等しく乗せて、必ずお浄土へと渡してくださるのが「弥陀弘誓のふね」だからです。

     オリンピックの金メダルを獲得する喜びは、今生ではどうやっても私には得ることはできませんが、阿弥陀様の浄土の世界に呼び起こされて、「いのちの拠り所」を知る喜びは、私のような凡夫にも等しく与えられていることに、深く安堵させて頂くことであります。


  • 挨拶

     先頃、町内の子どもたちの登校を見守る交通補導の役があたり、通学路に立っていました。自分から「おはようございます」と元気よく挨拶できる子、こちらから声をかけると挨拶する子、素通りしていく子、子どもたちの様子はそれぞれ違いましたが、やはり大きな声で挨拶できると気持ちが良いものです。挨拶できなかった子は、「どうしたのかな?体調が良くないのかな?」と心配になります。

     挨拶は、もともと仏教の禅の教えで用いられていた言葉だそうです。「挨」も「拶」も、「押す・迫る」という意味があり、群衆が他を押しのけて進む様子を表し、それを禅では、相手の悟りの浅深をはかるために「問答をしかけること」の意味に用いたそうです。それが転じて、応答や返礼などの意味に用いられるようになり、出遭いや別れのときの言葉や動作のことを一般に「挨拶」と言うようになったそうです。

     人間は一人だけで生きているのではなく、他の人との交流があって生活が成り立っていきます。その時に、お互いに相手の存在を認めあっていく最初の行動が「挨拶」です。

     挨拶は社会生活の基本になるとても大切なものだと言えますので、子どもたちには、ぜひこれからも元気よく挨拶できるように育っていってほしいと思いますし、ともすれば子どもより挨拶できない大人に出会うことがありますが、私たち大人も挨拶の大切さを改めて考えてみなくてはいけませんね。