日々の生活の中での法味をお伝えして参ります。
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宮商和して自然なり
今年も残すところ一ヶ月となりました。一年の過ぎゆく早さを改めて感じているこの頃です。年明け早々の大地震により、未だご苦労されている方々が大勢いらっしゃることに想いを致し、復旧が一刻でも早く進むように願うばかりです。
今年は、パリオリンピックやアメリカメジャーリーグ、日本の大相撲など、スポーツを通して明るい気持ちにさせてもらうことが沢山ありました。しかし、一方で国際的には未だ収束が見通せない戦争、国内では不安定な政治情勢、SNSを通じた犯罪の増加、止まることのない物価高・・・など、不安を感じることの方がはるかに多かったような気がします。
世の中にそうした不安感が渦巻いているためか、我が権利とばかりに自己を主張し、人同士の「和」を一顧だにしないような、殺伐とした空気が、じわりじわりと浸食してきているように感じます。
自らの考えを他者に伝えることはもちろん必要なことでありますが、自己は他との関係性の中でしか存在し得ないのが道理ですから、他者を想う心を無くして、まことの自己主張など成り立たず、ただの独りよがりに過ぎません。
今回のタイトルの言葉は、親鸞聖人が作られた浄土和讃の一首です。
清風宝樹(しょうふうほうじゅ)をふくときは
いつつの音声(おんじょう)いだしつつ
宮商(きゅうしょう)和(わ)して自然(じねん)なり
清浄勲(しょうじょうくん)を礼(らい)すべし宮と商とは、雅楽などの東洋音楽の五音(ごいん、この和讃では「いつつの音声」)という音階の中の要素です。西洋音楽の音階(ドレミ)で宮と商との関係を例えると、仮にハ長調で宮をドとすると商はレになり、これらの音を同時に出すと、ぶつかり合って聞こえる不協和音となり、調和することがありません。
しかし、阿弥陀仏の浄土の世界では、本来ぶつかりあうはずの不協和音でも調和しているのです。自分の音も相手の音も、決してぶつかり合うことなく美しく響き合っていくということです。
一つ一つの個がお互いを尊重し、全てが美しく調和していく浄土の世界を建立し、私たちを召喚し続けてくださっている阿弥陀仏のはたらきに帰依し、敬っていくべきだと親鸞聖人はお示しくださっています。いまの私たちの世界は、ぶつかり合った音同士が互いを打ち消そうとして、より大きく強い音を出して不協和音ばかりが響いていく・・・そんな世の中に向かっているように思えてなりません。
人間同士がもっと柔らかく朗らかに生きていくためにどうすれば良いのか、私たちひとりひとりが親鸞聖人のお言葉を噛みしめていくべきでありましょう。
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人間甲斐
動物には、種の保存のために、子を護る母性本能を促すホルモンが分泌される仕組みがあり、それによって護るべき存在と排除すべき敵とが区別されるそうで、動物の親子の群れに、別の群れの個体が入って来ようとしたとき、それを排除しようとするのは、そうした脳の仕組み、つまり本能によるものだそうです。
人間も動物ですから、同じ仕組みを持っています。私たちは自分の家族と他人の家族とを当たり前に区別しますし、見方を広げれば、社会の中で自分に親しく仲の良い人たちと、そうではない人たちとを、区別しながら生活しています。これもまさに本能によってなされることでしょう。
そのことを表す言葉に、親鸞聖人がご和讃の中に用いられた「愛憎違順」という言葉があります。「意に順ずるものは愛し、違うものは憎む」という意味ですが、このことが本能によって為され、私たちが離れることの出来ない煩悩なのだとすれば、これはもはや当然のこととして、肯定されていくべきなのでしょうか?
私たちは動物であるとは言え、愛憎違順の心を「本能だから、煩悩だから」と、そのまま盛んにしてしまっては、なまじ人間は知恵を持っているだけに、他の動物よりもはるかにタチの悪い有様となってしまいます。同じ種の「人間」同士で、縄張り争いをし、争い傷つけ合う「戦争」の姿は、まさに動物の本能以上に煩悩を盛んにしている人間の愚かな姿そのものです。
はたして私たちが人間に生まれて来た甲斐とは何でしょうか?そうやって本能のままに生き、恨みをつのらせ、憎しみ合い、争いに勝利して一時の愉悦に浸ることなのでしょうか。
お釈迦様は、
「無慚愧はなづけて人と為さず、名づけて畜生と為す」
(我が身を省みて恥じる心のないものは人とは言えない。それは畜生と同じである。)
『涅槃経』
と仰っています。
人間は慚愧の心を持つことができます。自分を省みて、愚かな行動を恥じ、自分以外の存在を認めながら、手を差し伸べ助け合える生き方こそ、人間として生まれて来た甲斐があり、本当の喜びのある人生であると、教えてくださっているのではないでしょうか。私たちの生きる世の中が、このまま畜生道や修羅道の世界へと染まっていかないように、お釈迦様の智慧ある言葉を皆が心に留め置かねばなりません。