ひと言法話

日々の生活の中での法味をお伝えして参ります。


  • 報恩講

     今年も残す所2ヶ月少々となりました。来月11月は、私たち真宗門徒が大切にしている宗祖親鸞聖人報恩講が、京都の本山興正寺で厳修されます。
     報恩講とは、親鸞聖人のご命日の法要です。言うなれば私たちが日頃お勤めする有縁の方の一周忌や三回忌などのご法事と同じです。親鸞聖人は旧暦の1262年11月28日がご命日と伝えられていますので、今年は764回忌のご法事ということになるでしょうか。
     末寺では、本山での御正忌報恩講の日程から外して報恩講を勤めますので、東光寺では8月に勤めさせていただいたところです。

     さて、私たちがご法事を勤めることの意味は、先往く人を偲ぶ中で、仏縁に出遇ったことを喜び、私たちに残してくださった御恩に想いを致すことです。その中で、報謝の心を育み、この人生を喜び歩ませてもらうことが大切なのです。
     ご法事は、今を生きる私たちのためにこそ勤められ、それは亡き人が残してくださった勝縁であると味わっていかねばならないでしょう。

     親鸞聖人の御命日法要である報恩講も、同じ事が言えます。自分がお念仏の御法に出遇えた喜びと、そのご縁を結んでくださった親鸞聖人の深い御恩に想いを致してゆく法要です。
     しかし、よくよく省みると、恥ずかしながら、日々の仕事や生活に追われて慌ただしく過ごす中で、その御恩などすっかり忘れ、当たり前のように生きている自分がいます。
     この度の本山報恩講では、式務員(お堂で勤行を務める役職)として、4日間お勤めさせていただきますので、改めて自分の姿勢を省みて、宗祖や先達の御恩を想いながら、心を込めて務めさせて頂きたいと思います。

     本山興正寺の報恩講は24日からYouTubeでライブ配信されます。ぜひオンラインでご参拝ください。
    本山興正寺チャンネル – YouTube


  • 先日、知床方面に出掛けた際、海岸線を車で走っていると、海面に陽光が反射して、とても美しく、遠い水平線まで広がる雄大さと相まって、しばし車を止めて眺めていたくなる風景でした。しかし、7月30日に津波警報が発令された際は、東北の大震災の時にテレビで見た、現実とは思えないような光景が思い返され、美しかった海が大変恐ろしい存在にも思えました。

    命を育み、美しく豊かな恵みの海も、時に荒れ狂い人智の及ばぬ自然の脅威として海も、どちらも同じ海の本質であり、その二面性故に人間は海への畏敬の念を絶やさないのかもしれません。

    さて、私たちの宗祖である親鸞聖人は、著述の中に、「海」のたとえを、非常に多く使用されています。京都に生まれ、比叡の山で長く修行された親鸞聖人が、初めて海をご覧になったのは、流罪となって越後に向かわれた途中だったのでしょうか。琵琶湖よりも遙かに大きな日本海の大海原を見て、どれほどの衝撃や感動を覚えられたことでしょうか。その心境が、沢山の海の譬えとなって表れているのかもしれませんが、親鸞聖人の海の使用例にも、次のように二つの側面があります。

    一つには、私たち凡夫の世界を海にたとえたもの(難度海、群生海、愛欲の広海、生死の苦海など)

    二つには、阿弥陀仏の働きを海にたとえたもの(弥陀本願海、功徳大宝海、大智願海、不可思議の徳海など)

    親鸞聖人にとっても「海」とは、人間の苦悩を象徴するような厳しく度し難い存在としての海と、十方世界の衆生を摂取し続けようとする阿弥陀仏の慈悲のように大きく深い海として、二面性を持って受け入れられていたのでしょう。
    しかし、それらは決して別個のものとして表現されているのではありません。
    煩悩と雑毒の善にまみれながら、荒れ狂う海の中で群れて漂うことしかできぬ凡夫が、ひとたび阿弥陀仏の本願に身を任せたならば、智慧と慈悲に満たされた温かく穏やかな海に浮かび、一人一人が必ず仏と成る身へと転ぜられ、輝いていくことが出来るのだという、阿弥陀仏の本願と私たち凡夫の決して離れることのない関係性が示されているように思います。