ひと言法話

日々の生活の中での法味をお伝えして参ります。


  • 一粒一滴みなご恩

    一粒一滴みなご恩 不足を言ってはもったいない
    感謝でおいしくいただきましょう いただきます

    真宗興正派の食前の言葉です。私が子どもの頃から食事の前に手を合わせて、口にしてきた言葉です。
    昨今の米の価格高騰による騒動を通じた様々な報道の中で、米農家の方々がいかに苦労してお米を栽培し、それを私たちが頂いていたのかということを改めて知り、この食前の言葉の持つ意味をかみしめました。

    「米などいつでも買える」「あって当たり前」と考えている自分がいましたが、その当たり前とは、米一粒にも、たくさんの「おかげさま」が働いてくださっていることに、全く眼が向いていなかったということです。「一粒一滴・・・」と言っていたのは、まさに口先だけであったと恥ずかしく思うことです。

    私たちは古来、仏前には、まずお仏飯をお供えしてきました。それは、お米が私たち日本人の主食であり、私たちにとって最も大切な糧を仏さまに最初に供え、敬い讃える意味があるからです。しかし、現代は飽食の時代となり、米の消費量が落ち、ご飯以外の様々な食べ物を求めるようになりました。その中で、すっかりお仏飯の意味合いさえも見失ってしまっている私たちの姿があるように思います。

    この度の米騒動を通して、多くの人が、日本人は米によって生きてきた民族であるということを再認識させられ、その糧をいかに大切にしていかねばならないかを考えさせられたのではないでしょうか。実は、ずっと昔から、毎朝のお仏飯を通して、そのことを教わり続けていたはずなのですが、そのことに気付かず、逆に不足ばかりを言っていたもったいない私の姿がありました。

    米の一粒にも汁の一滴にも仏様が宿る・・・この時代に生きる私たちが改めて心に留め置かなくてはならない大切な考え方です。


  • 同体の慈悲

     先日、コンビニで買い物をしておりますと、杖をついて覚束ない足取りのおじいさんが店内に入ってきました。なにやらブツブツと呟きながら歩いておられましたが、突如、大きな声で叫んだかと思うと、前のめりに倒れてしまったのです。どうやら、「滑る、滑る」と呟きながら用心して歩いておられたようなのですが、杖も履いていた長靴も、底がゴムだったために、コンビニの床では滑り、敢え無く転倒してしまったのです。幸いにも、おじいさんは床に転がる寸前に身が翻って、滑り込むように倒れたために、身体のどこかを強くぶつけることがなくて、大事に至りませんでした。
     その一部始終は私の目の前で起こったのですが、すぐに店員さんや他のお客さんも近くに寄ってきて、おじいさんが立ち上がるのを皆で支えました。店員さんはその後も、「任せてください」と言って、優しく付き添ってあげていました。おじいさんの怪我が無かったこともあり、見ず知らずの人同士の優しさや連帯感を感じて、久しぶりに心が温まる出来事となりました。

     さて、ほとんどの人は、このように誰かが転んだ時には、傍観せずに手を差し伸べて助けようと思うはずです。そして、その瞬間は、誰も見返りなど考えていないでしょう。これは本能的か後天的に育てられるものか分かりませんが、私たち人間が持っている「他の人(仲間)を思いやる心」です。
     しかし、よくよく考えると、私たちの「他人を想う心」とは、どこまで行っても不完全なものです。私たちは他人に手を差し伸べることは出来るのですが、その人の痛みや苦しみまで全く同じように感じることはできません。
     上記の転んだおじいさんの身体の痛みや恥ずかしいという気持ちまでは共有することはできないのです。あくまでも自己の経験を通して「想像する」ことしかできません。それは悲しいかな、どんなに大切な人であろうとも完全に同じ立場、心境に立つことは決してできないという事実ではありますが、とは言え他の人の痛みや悲しみを想像するという行為は、私たちにとって非常に重要な営みであることは言うまでもありません。それがなければ、和やかで、円滑な社会は決して生まれません。
     不徹底ではあるけれど、できるだけ他の人の想いに寄り添えるように努めたいものです。

     ところで、仏教には「慈悲」という大切な言葉があります。他のいのちに対して楽を与え、苦を取り除きたい(抜苦与楽)という意味があり、これは上述のように私たち人間には完全になし得ず、仏さまの心と言うことができます。
     この慈悲の心について、特に阿弥陀如来のお慈悲は「同体の慈悲」であると聞かせていただいたことがあります。
     それは、いのちを共有するところにおきる「人の喜びを我が喜びとし、人の悲しみを我が悲しみとする」という「同事」の心であり、例えば、転んだ人が目の前にいたならば、手を差し伸べるよりも先に、同じように転び、痛みや恥ずかしさまでも真に分かち合っていこうとする心です。それは、「仏心とは、大慈悲これなり」(『観無量寿経』)とあるように、私たち人間の思慮をはるかに超えたまことの慈悲でありますから、「大慈悲」と表されます。
     私の苦しみも悲しみも、私と同じように味わい分かってくださる存在がある・・・実に頼もしいことであります。