毎月一つか二つ、日々の生活の中での法味をお伝えして参ります。
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同体の慈悲
先日、コンビニで買い物をしておりますと、杖をついて覚束ない足取りのおじいさんが店内に入ってきました。なにやらブツブツと呟きながら歩いておられましたが、突如、大きな声で叫んだかと思うと、前のめりに倒れてしまったのです。どうやら、「滑る、滑る」と呟きながら用心して歩いておられたようなのですが、杖も履いていた長靴も、底がゴムだったために、コンビニの床では滑り、敢え無く転倒してしまったのです。幸いにも、おじいさんは床に転がる寸前に身が翻って、滑り込むように倒れたために、身体のどこかを強くぶつけることがなくて、大事に至りませんでした。
その一部始終は私の目の前で起こったのですが、すぐに店員さんや他のお客さんも近くに寄ってきて、おじいさんが立ち上がるのを皆で支えました。店員さんはその後も、「任せてください」と言って、優しく付き添ってあげていました。おじいさんの怪我が無かったこともあり、見ず知らずの人同士の優しさや連帯感を感じて、久しぶりに心が温まる出来事となりました。さて、ほとんどの人は、このように誰かが転んだ時には、傍観せずに手を差し伸べて助けようと思うはずです。そして、その瞬間は、誰も見返りなど考えていないでしょう。これは本能的か後天的に育てられるものか分かりませんが、私たち人間が持っている「他の人(仲間)を思いやる心」です。
しかし、よくよく考えると、私たちの「他人を想う心」とは、どこまで行っても不完全なものです。私たちは他人に手を差し伸べることは出来るのですが、その人の痛みや苦しみまで全く同じように感じることはできません。
上記の転んだおじいさんの身体の痛みや恥ずかしいという気持ちまでは共有することはできないのです。あくまでも自己の経験を通して「想像する」ことしかできません。それは悲しいかな、どんなに大切な人であろうとも完全に同じ立場、心境に立つことは決してできないという事実ではありますが、とは言え他の人の痛みや悲しみを想像するという行為は、私たちにとって非常に重要な営みであることは言うまでもありません。それがなければ、和やかで、円滑な社会は決して生まれません。
不徹底ではあるけれど、できるだけ他の人の想いに寄り添えるように努めたいものです。ところで、仏教には「慈悲」という大切な言葉があります。他のいのちに対して楽を与え、苦を取り除きたい(抜苦与楽)という意味があり、これは上述のように私たち人間には完全になし得ず、仏さまの心と言うことができます。
この慈悲の心について、特に阿弥陀如来のお慈悲は「同体の慈悲」であると聞かせていただいたことがあります。
それは、いのちを共有するところにおきる「人の喜びを我が喜びとし、人の悲しみを我が悲しみとする」という「同事」の心であり、例えば、転んだ人が目の前にいたならば、手を差し伸べるよりも先に、同じように転び、痛みや恥ずかしさまでも真に分かち合っていこうとする心です。それは、「仏心とは、大慈悲これなり」(『観無量寿経』)とあるように、私たち人間の思慮をはるかに超えたまことの慈悲でありますから、「大慈悲」と表されます。
私の苦しみも悲しみも、私と同じように味わい分かってくださる存在がある・・・実に頼もしいことであります。
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宮商和して自然なり
今年も残すところ一ヶ月となりました。一年の過ぎゆく早さを改めて感じているこの頃です。年明け早々の大地震により、未だご苦労されている方々が大勢いらっしゃることに想いを致し、復旧が一刻でも早く進むように願うばかりです。
今年は、パリオリンピックやアメリカメジャーリーグ、日本の大相撲など、スポーツを通して明るい気持ちにさせてもらうことが沢山ありました。しかし、一方で国際的には未だ収束が見通せない戦争、国内では不安定な政治情勢、SNSを通じた犯罪の増加、止まることのない物価高・・・など、不安を感じることの方がはるかに多かったような気がします。
世の中にそうした不安感が渦巻いているためか、我が権利とばかりに自己を主張し、人同士の「和」を一顧だにしないような、殺伐とした空気が、じわりじわりと浸食してきているように感じます。
自らの考えを他者に伝えることはもちろん必要なことでありますが、自己は他との関係性の中でしか存在し得ないのが道理ですから、他者を想う心を無くして、まことの自己主張など成り立たず、ただの独りよがりに過ぎません。
今回のタイトルの言葉は、親鸞聖人が作られた浄土和讃の一首です。
清風宝樹(しょうふうほうじゅ)をふくときは
いつつの音声(おんじょう)いだしつつ
宮商(きゅうしょう)和(わ)して自然(じねん)なり
清浄勲(しょうじょうくん)を礼(らい)すべし宮と商とは、雅楽などの東洋音楽の五音(ごいん、この和讃では「いつつの音声」)という音階の中の要素です。西洋音楽の音階(ドレミ)で宮と商との関係を例えると、仮にハ長調で宮をドとすると商はレになり、これらの音を同時に出すと、ぶつかり合って聞こえる不協和音となり、調和することがありません。
しかし、阿弥陀仏の浄土の世界では、本来ぶつかりあうはずの不協和音でも調和しているのです。自分の音も相手の音も、決してぶつかり合うことなく美しく響き合っていくということです。
一つ一つの個がお互いを尊重し、全てが美しく調和していく浄土の世界を建立し、私たちを召喚し続けてくださっている阿弥陀仏のはたらきに帰依し、敬っていくべきだと親鸞聖人はお示しくださっています。いまの私たちの世界は、ぶつかり合った音同士が互いを打ち消そうとして、より大きく強い音を出して不協和音ばかりが響いていく・・・そんな世の中に向かっているように思えてなりません。
人間同士がもっと柔らかく朗らかに生きていくためにどうすれば良いのか、私たちひとりひとりが親鸞聖人のお言葉を噛みしめていくべきでありましょう。