ひと言法話

毎月一つか二つ、日々の生活の中での法味をお伝えして参ります。


  • 世の中安穏なれ

     わが身の往生、一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために、御念仏、こころにいれてもうして、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれと、おぼしめすべし

    (仏の教えに出会って、みずからの身の救いが解決したと思う人は、仏のご恩に報いるためにお念仏を、心をこめて称え、「世の中が安らかで平穏であるように、仏法がひろまるように」と、お考えになるのがよいのです。)

    『親鸞聖人御消息集(広本)』

     今年も残すところ、あと僅かとなりました。

     近年は、お正月を迎えても、若い時のような高揚感のような感覚よりも、歳月の重さを感じることの方が多くなりました。

     さて、私たちはお正月には「あけましておめでとう」という挨拶を交わします。
     よくよく考えてみると、新年を迎えたことをおめでとうと喜べるのは、実に有り難いことであったと気付かされます。

     社会が安定していること。
     命の心配がないこと。
     食べることに不自由しないこと。
     暖かい場所で寝られること。
     孤独の寂しさがないこと。

     そうした恵まれた環境にあってこそ、新年を喜ぶことができるのでしょう。
     逆を言えば、世の中では、それがままならない状況の人たちが、今この時も大勢いるのです。 
     誰もが穏やかに新年を迎えられることを願っているのに、世の中では、人間自身の「エゴ」によって、争い、苦しみ悩みながら、今日一日さえも危うい命が無数に存在しているわけです。

     私たちは、自分の都合こそ善悪の判断基準とし、都合の悪いものは排除しようとします。ですから世の中から争いが止むことがありません。実に哀しく、空しいことです。

     いま私たちがなすべきことは、阿弥陀仏の真実の智慧を拠り所として生きることです。そして、煩悩を抱えた凡夫としての自分自身の姿を知ることです。その中で、感謝と自省を持ち、世の中安穏なれと願う、まことの人間としての生き方が与えられてくるのではないでしょうか。

     


  • サウナにて

     私は比較的サウナ好き。週に1度は近場のサウナでととのっています。出張で宿泊する時などは、必ずサウナ付きのホテルを選んで、これまた朝からととのっています。

     さて、先日のこと。いつものようにサウナを利用していると、60代とおぼしき男性が入ってまいりました。その人は自前のサウナマットは持っているのですが、タオルは持っていません。タオルがなければ、当然ながら流れた汗を受け止めるものはマット以外無いので、床はびしょぬれになります。その男性は、そのことを全く気にするそぶりも無く、サウナを堪能している様子。
     うーん・・・サウナ好きとしては、残念な気持ちです。
     サウナで汗が垂れて床が濡れるのは当然です。しかしながら、少しでもタオルで受け止めて、次の人がなるべく不快にならないように気遣ってほしいものです。

     「温泉に来てもタオルを持って入らない人もいるんだな…脱衣所もびしょぬれ…?」などと想いを巡らせている内に、今度は若い3人組が入ってきました。賑やかにおしゃべりをしています。せまいサウナ室内だから、ちょっと騒がしいです。しかし、その中の一人がサウナから出るときに、自分が座っていたところや足元の汗を、持っていたタオルで、さっと拭き取って行ったのです。
     ちょっとやかましかったけれど、そんなことが吹き飛ぶくらい感心しました。

     「おそらく、この若者の3倍近くは生きているであろうタオルの無いオジさんよ、この姿を見て、何かを感じておくれ…」と願いました。私も、その若者を見習って、自分の座っていた場所を見返してから出ることを心がけるようにしました。

     自分の行動を省みて、他の人のことを気遣えるということは、年齢が問題ではないのですね。日頃の心がけと習慣なのです。

     何事につけても、つい自分勝手に行動してしまう自分がいます。日々の在り方を省みる姿勢を持って生きたいものだと、若者の姿に学ばせて頂いたことであります。