ひと言法話

毎月一つか二つ、日々の生活の中での法味をお伝えして参ります。


  • お盆

     今年もお盆を迎えます。コロナをはじめ、世相は相変わらず不安の尽きないことばかりですが、お盆をご縁に、ひとしきり仏前に頭を垂れ、心を落ち着かせ、自分自身の生き方を省みたいものです。

     さて、世の中では、お盆は「亡き人が帰ってくる期間」と言われることが多いようです。迎え火や送り火を焚き、精霊馬を用意する風習は、亡き人が迷わず安心して帰ってこられるようにと願ってのことなのでしょう。

     私たちはみな、先往く方々を想い、大切にしたいという気持ちを持っています。

     浄土真宗の教えの中にあっても、もちろん亡き方を大切にします。しかしながら、その受け止め方は、上記のようなお盆の時期だけの期間限定で帰ってこられるという存在ではありません。

     念仏に出遇ったものの生まれ往く先は、阿弥陀様のお浄土です。お浄土に生まれたならば、すぐさま「真如法性」すなわち仏の身とならせて頂きます。仏となるということは、いつも還相(お浄土から還ってきて、衆生を導き助ける)の働きをお示しになるということですから、故人は期間限定ではなく、いつもどんな時でも、この私たちの側に還ってきてくださっているのです。

     その方々に誘われて、仏前に手を合わせ、お念仏を申している私たちです。そして、その中で自分自身の生き方、いのちの行方を訪ねさせて頂きます。

     お浄土の亡き方々をしのびつつ、この私自身が、阿弥陀様のご本願を聞きよろこぶ大切なご縁となっていくのが浄土真宗のお盆です。


  • 宗教②

     宗教が「人生の道しるべ」であるならば、その道しるべに従って生きていけば、私たちの人生は確かな歩みとなるはずです。

     ただし、その道しるべが全くのデタラメだったなら、行き着く先は言わずもがな、です。東に進むべきところを、西へ進めと指示されたなら、路頭に迷うのは当然のことです。

     さて、ニセモノの宗教とは、一体何か。

     先頃、お亡くなりになった宗教学者のひろさちや氏の言葉を借りると、次のようなことが言えます。

     「ほんものの宗教と、インチキ宗教の見分け方は、世間のものさしで勝負している宗教はインチキ宗教。世間のものさしを超えたところに、仏様や神様のものさしという、別のもうひとつのものさしを持っているのがほんものの宗教。
     例えば世間のものさしで考えると、病気は悪いことで、健康は良いということになる。だから病気になれば治したいし、健康になりたいと思う。それが世間のものさしというもので、これで勝負している宗教は、この宗教を信じれば病気は治りますよと弱みにつけ込んでくる。これがインチキ宗教。
     ほんものの宗教のものさしから見れば、病気になれば病気がいい。いま現に病気をしているとすれば、それを悪ということ自体がおかしいのであって、それは自分の存在を否定していることになる。だから、病気でもいいんだよ、と教えてくれるのが、ほんものの宗教。」

    ひろさちや『お葬式をどうするか』参考

     私たち人間には、辛く苦しい出来事が必ず起こります。何かを頼みにしなければ、再び立ち上がることが困難な時もあるでしょう。そうした時に、心の弱み・つらさにつけ込み、何かを条件にして思い通りの結果に導くようなことを甘く囁く宗教は、まさしくインチキ宗教でしょう。

     かの団体のように、高価な壺を買おうとも、印鑑を買おうとも、我々に起こる出来事を都合良く変えていくことなど決してできません。

     人間としてこの世に生まれ出た以上、しかるべき縁に遇えば、どのような悲しい出来事であろうとも必ず起こり得るのが、私たちの世界の道理です。だから、辛く悲しい出来事を覆い隠し、遠ざけようとするのでなく、「何事もご縁であった。私のかけがえのない人生の1ページであった。」と、受け止めていけることこそ、道理に適った生き方ではないでしょうか。それを教えるのがほんものの宗教です。