ひと言法話

毎月一つか二つ、日々の生活の中での法味をお伝えして参ります。


  • 雲霧の下、明らかなり

     まもなく8月が終わり、北海道は一気に秋へと季節が移っていきます。振り返ると、今年は天候が安定しない夏だったような気がします。前住が育てている菜園のトマトが今年はなかなか熟さず、昨年ほど私の口に入らなかったことが、余計にそのように感じさせているのでしょうか。

     さて、トマトが熟すには、いささか不足気味であった今夏の日照とはいえ、私たちが屋外で活動するには、日中であれば雲がかかっていたとしても、充分に明るいのです。夕立をもたらすような分厚い雷雲であっても、真っ暗闇になることはありません。日の光は、雲を突き抜け私たちを照らしています。

     このことをお正信偈の一節には、次のように示されています。

    貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
    譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇

    貪愛・瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり。
    たとえば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし。

     私たちの心に、分厚い煩悩の雲がかかり、まことの信じる心が常に覆われていたとしても、阿弥陀如来の摂取の光は、その煩悩の雲を突き抜け、私たちに至り届き、照らし続けているということを例えられております。

     いま私の生き様を省みれば、煩悩の雲が消えて晴れるどころか、つねに入道雲のごとく次から次へと沸き起こってきます。その分厚い煩悩の雲に覆われて、ふらふらと惑い、足がもつれて転げ、あちこちに傷をつくりながら生きている有様です。

     そんなみっともない私の生き様ですが、しかしその歩む道は決して真っ暗闇ではありません。阿弥陀仏のお慈悲の光に、進むべき道をしっかりと照らして頂いている人生です。

     煩悩を抱え、悩み惑いながらの人生ですが、「そのままで大丈夫だよ」と阿弥陀様に寄り添われ、確かにお浄土へと向かわせて頂く人生を歩ませていただいています。

    まことに頼もしいことであります。


  • お盆

     今年もお盆を迎えます。コロナをはじめ、世相は相変わらず不安の尽きないことばかりですが、お盆をご縁に、ひとしきり仏前に頭を垂れ、心を落ち着かせ、自分自身の生き方を省みたいものです。

     さて、世の中では、お盆は「亡き人が帰ってくる期間」と言われることが多いようです。迎え火や送り火を焚き、精霊馬を用意する風習は、亡き人が迷わず安心して帰ってこられるようにと願ってのことなのでしょう。

     私たちはみな、先往く方々を想い、大切にしたいという気持ちを持っています。

     浄土真宗の教えの中にあっても、もちろん亡き方を大切にします。しかしながら、その受け止め方は、上記のようなお盆の時期だけの期間限定で帰ってこられるという存在ではありません。

     念仏に出遇ったものの生まれ往く先は、阿弥陀様のお浄土です。お浄土に生まれたならば、すぐさま「真如法性」すなわち仏の身とならせて頂きます。仏となるということは、いつも還相(お浄土から還ってきて、衆生を導き助ける)の働きをお示しになるということですから、故人は期間限定ではなく、いつもどんな時でも、この私たちの側に還ってきてくださっているのです。

     その方々に誘われて、仏前に手を合わせ、お念仏を申している私たちです。そして、その中で自分自身の生き方、いのちの行方を訪ねさせて頂きます。

     お浄土の亡き方々をしのびつつ、この私自身が、阿弥陀様のご本願を聞きよろこぶ大切なご縁となっていくのが浄土真宗のお盆です。