毎月一つか二つ、日々の生活の中での法味をお伝えして参ります。
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宗教②
宗教が「人生の道しるべ」であるならば、その道しるべに従って生きていけば、私たちの人生は確かな歩みとなるはずです。
ただし、その道しるべが全くのデタラメだったなら、行き着く先は言わずもがな、です。東に進むべきところを、西へ進めと指示されたなら、路頭に迷うのは当然のことです。
さて、ニセモノの宗教とは、一体何か。
先頃、お亡くなりになった宗教学者のひろさちや氏の言葉を借りると、次のようなことが言えます。
「ほんものの宗教と、インチキ宗教の見分け方は、世間のものさしで勝負している宗教はインチキ宗教。世間のものさしを超えたところに、仏様や神様のものさしという、別のもうひとつのものさしを持っているのがほんものの宗教。
ひろさちや『お葬式をどうするか』参考
例えば世間のものさしで考えると、病気は悪いことで、健康は良いということになる。だから病気になれば治したいし、健康になりたいと思う。それが世間のものさしというもので、これで勝負している宗教は、この宗教を信じれば病気は治りますよと弱みにつけ込んでくる。これがインチキ宗教。
ほんものの宗教のものさしから見れば、病気になれば病気がいい。いま現に病気をしているとすれば、それを悪ということ自体がおかしいのであって、それは自分の存在を否定していることになる。だから、病気でもいいんだよ、と教えてくれるのが、ほんものの宗教。」私たち人間には、辛く苦しい出来事が必ず起こります。何かを頼みにしなければ、再び立ち上がることが困難な時もあるでしょう。そうした時に、心の弱み・つらさにつけ込み、何かを条件にして思い通りの結果に導くようなことを甘く囁く宗教は、まさしくインチキ宗教でしょう。
かの団体のように、高価な壺を買おうとも、印鑑を買おうとも、我々に起こる出来事を都合良く変えていくことなど決してできません。
人間としてこの世に生まれ出た以上、しかるべき縁に遇えば、どのような悲しい出来事であろうとも必ず起こり得るのが、私たちの世界の道理です。だから、辛く悲しい出来事を覆い隠し、遠ざけようとするのでなく、「何事もご縁であった。私のかけがえのない人生の1ページであった。」と、受け止めていけることこそ、道理に適った生き方ではないでしょうか。それを教えるのがほんものの宗教です。
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宗教①
先般の元首相銃殺事件に関わって、にわかに「宗教」という言葉が浮かび上がってきております。かつて世間を騒がせ、再び注目を浴びることとなった、かの宗教団体は、各種報道から知るところのみではありますが、何かと問題をはらんでいるようです。
今回の事件を通して、「宗教は怖い」「宗教など必要ない」などという声が大きくなってしまったとしたら、非常に残念なことです。
宗教とは、その漢字のとおり、自らが何を宗として(何を大切なものと考えて)、この人生を生きていくかということを教えるものです。つまり、宗教はその人の生き様そのものに関わってくることであります。日本人には「自分は無宗教です」と公言するひとが多いそうですが、それは一部の外国の人からすると、「生き方なんてどうでもいい」と言っていることに等しく、全くもって信用できない人物と理解されると聞いたことがあります。もしかすると日本人の中で「無宗教」を公言するひとは、宗教が、まやかしや危険なもの、あるいは心の弱い人が傾倒するものなどと認識し、宗教に関わっていない自分を「確かな人間である」と自負しているのかもしれません。
しかし、それは甚だ認識違いと言えます。
徹頭徹尾、間違いのない人生を送っている人などいないはずです。現在、絶好調の人は、たまたま今が順風満帆なだけでしょう。それが永遠に続くことなどあり得ません。急転直下、絶望の淵に立たされることは必然です。そういう人生の中で、自分の「道しるべ」となるものが宗教なのです。
浮き沈み、紆余曲折する人生の中で、自らの生き方を正しく示してくれるものが無ければ、それは実に不確かで頼りない人生を歩んでいるということになってしまうでしょう。宗教とは、心が弱いから求めるものではなく、人間にはそもそも宗教が必要なのです。無宗教論者は、本当に何一つ「頼みとするもの」を持たずに生きているのでしょうか?実に疑問です。
ただし、その人生の「道しるべ」となるべき教えが、ニセモノだった場合が問題なのです。
(次回に続く)