ひと言法話

毎月一つか二つ、日々の生活の中での法味をお伝えして参ります。


  • 宗教①

     先般の元首相銃殺事件に関わって、にわかに「宗教」という言葉が浮かび上がってきております。かつて世間を騒がせ、再び注目を浴びることとなった、かの宗教団体は、各種報道から知るところのみではありますが、何かと問題をはらんでいるようです。

     今回の事件を通して、「宗教は怖い」「宗教など必要ない」などという声が大きくなってしまったとしたら、非常に残念なことです。
     宗教とは、その漢字のとおり、自らが何を宗として(何を大切なものと考えて)、この人生を生きていくかということを教えるものです。つまり、宗教はその人の生き様そのものに関わってくることであります。日本人には「自分は無宗教です」と公言するひとが多いそうですが、それは一部の外国の人からすると、「生き方なんてどうでもいい」と言っていることに等しく、全くもって信用できない人物と理解されると聞いたことがあります。

     もしかすると日本人の中で「無宗教」を公言するひとは、宗教が、まやかしや危険なもの、あるいは心の弱い人が傾倒するものなどと認識し、宗教に関わっていない自分を「確かな人間である」と自負しているのかもしれません。
     しかし、それは甚だ認識違いと言えます。
     徹頭徹尾、間違いのない人生を送っている人などいないはずです。現在、絶好調の人は、たまたま今が順風満帆なだけでしょう。それが永遠に続くことなどあり得ません。急転直下、絶望の淵に立たされることは必然です。そういう人生の中で、自分の「道しるべ」となるものが宗教なのです。
     浮き沈み、紆余曲折する人生の中で、自らの生き方を正しく示してくれるものが無ければ、それは実に不確かで頼りない人生を歩んでいるということになってしまうでしょう。

     宗教とは、心が弱いから求めるものではなく、人間にはそもそも宗教が必要なのです。無宗教論者は、本当に何一つ「頼みとするもの」を持たずに生きているのでしょうか?実に疑問です。

     ただし、その人生の「道しるべ」となるべき教えが、ニセモノだった場合が問題なのです。
     (次回に続く)


  • 武力

    アメリカで銃の乱射事件が頻発しています。事件が起こる度、銃規制について論争となるものの、結局何も変わっていません。あれほど悲しい事件がたびたび起こっているのに、何も変わらないのは何故なのでしょう?一旦拡大した武力には、様々な要素が絡まりあって、なお一層減らしていくことが難しくなるのでしょうか。

    武器や武力とは、他人を脅し、殺傷することが目的のものです。ですから、本来は無い方が良いに決まっています。ですが、誰かが自分を護る目的で武器を持ち始めると、武器を持たない人は持っていないことに不安を覚えます。そして、「より強力な武器を持てば安心」「武器を持っているからこそ相手の攻撃を抑止できて安全になる」という、今のアメリカが陥っている負の思考回路にはまってしまいます。

    これは今、日本をはじめ世界中の国々が、他国の脅威に対抗するためにと軍事力増強に傾いている状況と同じです。

    武器・武力の増大による平穏は一時的なものです。そして、本当の平穏ではありません。「相手より強力に」と常に考えるのが人間ですから、軍拡に歯止めがきかなくなるでしょう。相手を傷つけるための武器がそこかしこに在れば、いずれどこかで暴発が起こります。

    人間同士が、愚かにも殺し合うことが無くなるように、武力を持たずして平穏を成り立たせることは出来ないのでしょうか。アメリカの銃規制が一向に進まないように、世界の軍縮も一向に進んでいきません。実に情けなく、悲しいことであります。

    お釈迦様は、このように仰っております

    われらは怨(うら)み憎しみあう人々の中にありて、怨みもなく憎しみもなく安らかに生きたい
    われらは怨み憎しみを抱く人々の中にありて、怨みも憎しみもなくありたい

    『法句経』

    私たち人間が本当に求めるべき、生き方なのではないでしょうか。