ひと言法話

毎月一つか二つ、日々の生活の中での法味をお伝えして参ります。


  • 弔い

    弔いの場で故人を悼み、献げられる花や物品があります。そのことが最近気になります。

    先般、日本の元首相や、英国女王の国葬について盛んに報道され、多くの人々が献花に訪れる様子を目にしました。また、事件や事故によって悲しくも命を失った人を悼み、現場に献げられている沢山の花や物品の様子もしばしばニュース番組で目にします。

    故人を偲び、哀悼の心から、お花や物品を献げたいという気持ちは充分に理解できますし、亡き人への哀悼の心は持つべきでありましょう。

    しかし、あの大量の花やお菓子、ジュースなどは、その後どうなるのでしょうか?その事が妙に気になるのです。

    おそらく、関係者のどなたかが担当となって片付けるのでしょうが、花も物品もすべて廃棄するのでしょうか?そうだとすれば、花を覆う包装を外すこと一つでも大変な手間な上に、それ以外の物品の分別も必要でしょう。そして相当量の廃棄物が生まれてしまいます。

    故人の為に何かしてあげたいという心は温かく尊いものです。
    しかし、その心を形に表した後のことについても、一度考えてみる必要があるのではないでしょうか?

    私たちには、「合掌」「礼拝」という行いがあります。手を合わせ、頭を下げ、大切な方を想うことのできる大切な行いです。

    心を込めて、しばし合掌、礼拝する。その後、哀悼の想いと共に献げた品は持ち帰るということも選択肢の一つとして考えてみても良いのではないでしょうか。


  • 雲霧の下、明らかなり

     まもなく8月が終わり、北海道は一気に秋へと季節が移っていきます。振り返ると、今年は天候が安定しない夏だったような気がします。前住が育てている菜園のトマトが今年はなかなか熟さず、昨年ほど私の口に入らなかったことが、余計にそのように感じさせているのでしょうか。

     さて、トマトが熟すには、いささか不足気味であった今夏の日照とはいえ、私たちが屋外で活動するには、日中であれば雲がかかっていたとしても、充分に明るいのです。夕立をもたらすような分厚い雷雲であっても、真っ暗闇になることはありません。日の光は、雲を突き抜け私たちを照らしています。

     このことをお正信偈の一節には、次のように示されています。

    貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
    譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇

    貪愛・瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり。
    たとえば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし。

     私たちの心に、分厚い煩悩の雲がかかり、まことの信じる心が常に覆われていたとしても、阿弥陀如来の摂取の光は、その煩悩の雲を突き抜け、私たちに至り届き、照らし続けているということを例えられております。

     いま私の生き様を省みれば、煩悩の雲が消えて晴れるどころか、つねに入道雲のごとく次から次へと沸き起こってきます。その分厚い煩悩の雲に覆われて、ふらふらと惑い、足がもつれて転げ、あちこちに傷をつくりながら生きている有様です。

     そんなみっともない私の生き様ですが、しかしその歩む道は決して真っ暗闇ではありません。阿弥陀仏のお慈悲の光に、進むべき道をしっかりと照らして頂いている人生です。

     煩悩を抱え、悩み惑いながらの人生ですが、「そのままで大丈夫だよ」と阿弥陀様に寄り添われ、確かにお浄土へと向かわせて頂く人生を歩ませていただいています。

    まことに頼もしいことであります。