毎月一つか二つ、日々の生活の中での法味をお伝えして参ります。
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今こそ
今年(令和4年)の元日、「今年こそは・・・」と決意したことがいくつかあります。恥ずかしいので、全ては申しませんが、その中の一つが「日記を付ける」ということでした。
一日を振り返る時間をつくり、自分の行動を見つめ直そう…という志は、我ながら立派だったのですが、案の定、三日坊主で終了してしまいました。
「今日は時間がないから、明日書こう。」と思ったが最後、「明日こそ書こう」「来週からやり直そう」「来月には始めよう」・・・。
そんな日々を繰り返し、気付けば一年の終わりを迎えてしまいました。さらに、今この期に及んで「来年こそは…」と、考えている自分自身がいることも滑稽です。実は、この3年ほど全く同じことを繰り返しております。あぁ、恥ずかしい。
さて、私の三日坊主の話は、脇に置いておきまして、私たちには、「明日でいいや」などと言っていられない、もっともっと大切な問題があります。
それは、私自身がいったい何処に向かって、この人生を歩んでいるのか、ということです。せっかくの人生、一度きりの人生を、目的なく、成り行き任せに生きていくのでは実に勿体ないことではないでしょうか?
本願寺第八代の蓮如上人の言葉として、次のようなものが伝えられています。
「佛法には明日と申ことあるまじく候 佛法のことはいそげいそげと仰られ候」
『蓮如上人一悟記』仏法を聴聞し、お浄土を拠り所として、確かな人生を歩んでいく。このことは私たち人間にとっての命題と言えるのではないでしょうか。
日記を書く程度のことだから「明日から…」と先送りにしてたとしても、さほど不都合はなかったのです。
しかし、自分の人生の問題ならば、どうでしょう。「明日でいい」と先送りにしてしまうと、一年どころか、あっと言う間に一生が過ぎ、気がつけば空しく過ぎゆく人生だった…とぼやき、嘆きながら終えていくことになってしまうかもしれません。だからこそ、蓮如上人は、「仏法には明日があるなどと思うな。今こそ求めよ。急げ急げ」と、お伝えくださったことであります。
人生の拠り所を求めるのに、早すぎることはありません。
まもなく新年を迎えますが、「年が明けてから」と言わず、「今こそ最善の時」として仏法を求め、お浄土という確かな目的を持った人生を歩ませて頂きましょう。
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報恩講
親鸞聖人は、旧暦1262年11月28日に御往生されたと伝えられています。京都の本山興正寺では11月21日から28日まで、親鸞聖人の御命日法要である「報恩講」を勤修しています。
また、宗門の各末寺でも、本山報恩講と時期が重ならないように日程を調整し、報恩講を勤めます。(東光寺は毎年8月24日~25日です。)報恩講とは「御恩に報いる」法要ということですが、日頃、我々はどれほど「恩」ということを、意識しながら生活しているでしょうか?
私と言えば、たくさんの「お陰様」の中で、支えられ助けられ、よっぽどの深いご縁があって、ようやくお念仏の教えに出遇わさせてもらっているはずなのに、それをすっかり当たり前のような顔をして、毎日を過ごしています。
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
『正像末和讃』
師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべしいつもご家庭でのお勤めの時に、拝読している『恩徳讃』です。
親鸞聖人は、自らが感じ取られた阿弥陀如来の御恩、そして師主知識(お釈迦様や七高僧さま)の御恩に対する、深い感謝をこの和讃に込められています。私たちも、まずは自らが頂いている御恩に気付いていかなくては、報謝の気持ちも起こって参りません。
本日は親鸞聖人の760年目の御命日をお迎えしました。改めて一人一人が自分が頂いている御恩に心をかたむけて参りましょう。
また近隣の御門徒さまのご家庭には、12月から1月にかけて報恩講づとめに参ります。どうぞ一緒に「正信偈」を拝読し、お念仏の御教えを味わう中で、御恩の深さに想いを致す大切な機会にして参りましょう。