ひと言法話

毎月一つか二つ、日々の生活の中での法味をお伝えして参ります。


  • 鎌倉時代

    昨年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を後から見ようと全話録画したままになっていました。
    それをようやく年明けから見始め、先日最終回を迎えました。

    今さらですが「鎌倉ロス」です…。

    終盤は一日一話どころか、時間の許す限り見入ってしまいました。

    物語は、伊豆の小さな豪族に過ぎなかった北条家が、鎌倉幕府の執権として権力を掴んでいく様子が描かれました。
    中盤から終盤にかけては、鎌倉や北条家に仇となる人物は悉く、執権となった北条義時の謀略によって命が奪われていくという重たい展開だったものの、登場人物には人間くささが溢れ、心打たれる場面も多く、見続けてしまった次第です。

    ところで、鎌倉で有名なものの一つに「大仏」があります。鎌倉の大仏は、1252(建長4)年に鋳造が開始されたこと以外、はっきりしたことは分かっていないそうですが、一説によれば、奈良の大仏の復旧に尽力した源頼朝と北条政子が、鎌倉にも大仏建立を発願したとか。

    頼朝はその数年後に没したため、完成を見ることはなかったそうですが、その意思は後の者に引き継がれ、関東を代表する見事な大仏が完成したのですね。
    大河ドラマの作中では、大仏に関わる話には触れられなかったものの、登場人物が神仏に祈るシーンは、たびたび出て参りました。その描写の通り、当時の人々は、私たち現代人よりもはるかに神仏の存在を身近に感じ取り、畏れ敬っていたのでしょう。

    ちなみに、鎌倉の大仏さまは、私たち真宗門徒が拠り所としている「阿弥陀如来」です。奈良の大仏さま(盧舎那仏)とは異なる阿弥陀如来像を建立した理由は詳しく分かりませんが、源頼朝や北条政子をはじめ、鎌倉の多くの人々が阿弥陀仏を信じ、極楽浄土への往生を願っていたのかもしれません。
    ドラマで描かれていたように、国を統治していくために人の命がいとも簡単に奪われていく戦乱の世では、阿弥陀仏の浄土を願わずにはおれなかったのでしょうか。

    鎌倉時代初期は、法然上人や親鸞聖人がご活躍なされた真っ只中です。法然上人の法語録には、北条政子との手紙のやり取りと言われる言葉が残っていますが、果たして二人がどこかで実際に顔を合わせ、法然上人の教えを政子が聞いたことはあったのか・・・。
    また、親鸞聖人が関東にいらっしゃった頃、鎌倉との関わりはあったのか・・・。
    いろいろと空想が膨らむこの頃です。


  • 今こそ

    今年(令和4年)の元日、「今年こそは・・・」と決意したことがいくつかあります。恥ずかしいので、全ては申しませんが、その中の一つが「日記を付ける」ということでした。

    一日を振り返る時間をつくり、自分の行動を見つめ直そう…という志は、我ながら立派だったのですが、案の定、三日坊主で終了してしまいました。

    「今日は時間がないから、明日書こう。」と思ったが最後、「明日こそ書こう」「来週からやり直そう」「来月には始めよう」・・・。
    そんな日々を繰り返し、気付けば一年の終わりを迎えてしまいました。

    さらに、今この期に及んで「来年こそは…」と、考えている自分自身がいることも滑稽です。実は、この3年ほど全く同じことを繰り返しております。あぁ、恥ずかしい。

    さて、私の三日坊主の話は、脇に置いておきまして、私たちには、「明日でいいや」などと言っていられない、もっともっと大切な問題があります。

    それは、私自身がいったい何処に向かって、この人生を歩んでいるのか、ということです。せっかくの人生、一度きりの人生を、目的なく、成り行き任せに生きていくのでは実に勿体ないことではないでしょうか?

    本願寺第八代の蓮如上人の言葉として、次のようなものが伝えられています。

    「佛法には明日と申ことあるまじく候 佛法のことはいそげいそげと仰られ候」

    『蓮如上人一悟記』

    仏法を聴聞し、お浄土を拠り所として、確かな人生を歩んでいく。このことは私たち人間にとっての命題と言えるのではないでしょうか。

    日記を書く程度のことだから「明日から…」と先送りにしてたとしても、さほど不都合はなかったのです。
    しかし、自分の人生の問題ならば、どうでしょう。「明日でいい」と先送りにしてしまうと、一年どころか、あっと言う間に一生が過ぎ、気がつけば空しく過ぎゆく人生だった…とぼやき、嘆きながら終えていくことになってしまうかもしれません。

    だからこそ、蓮如上人は、「仏法には明日があるなどと思うな。今こそ求めよ。急げ急げ」と、お伝えくださったことであります。

    人生の拠り所を求めるのに、早すぎることはありません。

    まもなく新年を迎えますが、「年が明けてから」と言わず、「今こそ最善の時」として仏法を求め、お浄土という確かな目的を持った人生を歩ませて頂きましょう。