ひと言法話

毎月一つか二つ、日々の生活の中での法味をお伝えして参ります。


  • 先祖代々

     先日、お参りに行った先で、「先祖代々という言葉は、すでに死語になっているらしいよ」というお話を伺いました。

     たしかに昨今は、生まれ育った土地を離れて生活する人が増え、「家」や「仏壇」・「墓」・「土地」など、代々受け継がれてきたものが、継承しにくくなってきています。

     昔よりも交通が便利になったこともあり、「住」生活の仕組みも変化しているのですから、それも致し方ないことと思いますし、社会の変化の中で、「当たり前」だと思われていたことが過去のものになっていき、新しい「標準」が出来あがっていくことは、決して悪いこととは思いません。
     そうした中で「先祖代々」という言葉が用いられなくなることは、必然だったのかもしれませんが、その言葉とともに、考え方そのものも無くなってしまうのでしょうか。

     社会が変わったからと言って、「大切なこと」まで「過去のもの・不要なもの」として捨て去ってしまうわけにはいきません。それでは、私たちの人生そのものが、大切なものを忘れた空虚な人生になってしまうことでしょう。

     私は住職として、仏壇や寺との関係、家や土地などを、過去の伝統の通りに継承していくことが、本当に大切なことだと言うつもりはありません。それが難しいのであれば、社会の変化に対応できる、何か良い方法を探すべきでしょう。

     一番肝心なことは、継承の仕方・形というよりも、私たちの「今」が、果てしない「過去」から繋がっているということに「想いを致すことが出来るかどうか」ではないでしょうか。それは言い換えれば、自分のいのちの尊さや重みに気づいていくことが出来るかどうかということだと思います。

     まもなくお盆を迎えます。せっかくのご縁ですから、お盆参りを勤める中で、家族揃って「先祖代々のいのち」に想いを致してみませんか。先往く人々の存在を感じ取って、それをひとりひとりの心の中に継承していけることが、とっても大切で素敵なことではないでしょうか。


  • スギナ

     だんだんと温かくなり、草木が芽吹き、花が咲く、素敵な時候になって参りました。

     軒先にある私の家庭菜園と花壇も、緑が鮮やかになって参りました。が、しかしちょっと手入れをサボっている内に、花壇にはスギナがぐんぐん成長し、存在感を放ち始めました。

     いよいよ見て見ぬふりができなくなってきましたので、昨日ようやく雑草抜きに取りかかったのですが、立派に成長したスギナのたくましさには驚かされました。

     スギナは地下茎を伸ばして増えますが、一体どこまで繋がっているのか…と思うほど、長く立派な根が埋まっています。全て掘り返す訳にもいかず、「どうせまた伸びてくるよね」と溜息をこぼしながら、引っこ抜いていました。

     そうやって、あれこれ考えながら作業している内に、見えないところで根が繋がりあって、土の表面に出てきているスギナの様子を見て、
    「これって人間も一緒だな。みんな見えないところでご縁によって繋がっているんだな。」
    ということを、ふと、思いました。

     自分の目の前にいる人は、どれだけ深い縁をもって見えないところで繋がっていたことか…。

    「一切(いっさい)の有情(うじょう)は、みなもって世々生々(せせしょうじょう)の父母兄弟(ぶもきょうだい)なり。」

     (すべての生きとし生けるものは、みな生まれ変わり死に変わりする中で、父母であり兄弟であったのだ)

    『歎異抄』第5条

    と親鸞聖人が仰っているように、私たちの想いが及ばないほど深いところで、みな繋がり合い、たまたま縁あって、いま出遇うことが出来ているのでしょう。

     今は、コロナによって「人付き合い」というものが変化し、以前より、人間同士のつながりが希薄になっているかもしれません。そういう時だからこそ、せっかく出会うことが出来た目の前の人とのご縁の深さに想いを致し、その出遇いを大切にしていかなくてならないな、と改めて感じさせられます。

     やっかいなスギナが、何だか大事なことを教えてくれたような気がします。…だとしても、そんなに生えてこないで…。