ひと言法話

毎月一つか二つ、日々の生活の中での法味をお伝えして参ります。


  • 視点

     大学に進学した長男が京都から夏休みで帰省していた折、長男の部屋の上階から水漏れが発生したとマンションの管理会社から連絡が来ました。水漏れした部屋の斜め下にあたる長男の部屋の方が、真下の部屋よりも浸水がひどかったそうですが、なんとか家財道具などは水浸しにならずに済んだようです。

     しかし、後日部屋の様子を心配しながら京都に戻った長男には、それなりの試練が待っていました。

     床面は半分ほどが水につかったため、でこぼこになり、敷いていたラグにはカビが生えていました。食料を保管していたキッチンの棚にもカビが生え、食材にニオイが移っていました。トイレや風呂にも、汚れた形跡があり、何よりも部屋全体がカビ臭くて、生活がままならない状況だったようです。
     しばらくホテル住まいをしながら、管理会社や保険会社と修繕対応の話を進めました。修繕完了までは1~2ヶ月はかかるらしく、それまで代わりの部屋を管理会社に用意してもらう必要があるようです。

     こうして文章にすると、それほどのことでは無いように思われますが、まだ一人暮らしをはじめて半年ほどの長男が、これらのすべてを自分ひとりで対応するのは、なかなか大変だったようです。(実際には、私や妻に何度も電話で相談し、「勘弁して」と頭を抱えながら、進めていました。)
     しかし現在は、まだ仮部屋も決まっていないものの、先の見通しが立ったことで、当初の混乱は落ち着き、多少の心の余裕が出来ました。

     さて、長男は当初、このような状況に困惑し、「何でこんな目に遇わなくてはいけないんだ」と嘆いていました。しかし、心に余裕ができた今は、「まぁこれもいい社会勉強になった」と言っています。「漏水事故」に対して、当初は「迷惑極まりない」と感じていた長男が、視点を変えることによって「自分を成長させる出来事」として受け止めることができたようです。

     物事の見方ひとつで、同じ出来事でも全く受け止め方が異なってくるのですね。

     このことは、私たちの身の回りに起こるすべての出来事に当てはまります。私たちは人生の中で、様々な悲苦に出あわなくてはなりません。必ず起こる困難を、どの視点から見つめていくかが肝心です。

     悲嘆にくれ、愚痴をこぼし、「ああしておけば・・・」と悔やんでばかりよりも、辛く苦しいあの出来事も、私の人生の大切な1コマだったのだな、と受け止められる視点をもって生きていきたいものです。


  • 先祖代々

     先日、お参りに行った先で、「先祖代々という言葉は、すでに死語になっているらしいよ」というお話を伺いました。

     たしかに昨今は、生まれ育った土地を離れて生活する人が増え、「家」や「仏壇」・「墓」・「土地」など、代々受け継がれてきたものが、継承しにくくなってきています。

     昔よりも交通が便利になったこともあり、「住」生活の仕組みも変化しているのですから、それも致し方ないことと思いますし、社会の変化の中で、「当たり前」だと思われていたことが過去のものになっていき、新しい「標準」が出来あがっていくことは、決して悪いこととは思いません。
     そうした中で「先祖代々」という言葉が用いられなくなることは、必然だったのかもしれませんが、その言葉とともに、考え方そのものも無くなってしまうのでしょうか。

     社会が変わったからと言って、「大切なこと」まで「過去のもの・不要なもの」として捨て去ってしまうわけにはいきません。それでは、私たちの人生そのものが、大切なものを忘れた空虚な人生になってしまうことでしょう。

     私は住職として、仏壇や寺との関係、家や土地などを、過去の伝統の通りに継承していくことが、本当に大切なことだと言うつもりはありません。それが難しいのであれば、社会の変化に対応できる、何か良い方法を探すべきでしょう。

     一番肝心なことは、継承の仕方・形というよりも、私たちの「今」が、果てしない「過去」から繋がっているということに「想いを致すことが出来るかどうか」ではないでしょうか。それは言い換えれば、自分のいのちの尊さや重みに気づいていくことが出来るかどうかということだと思います。

     まもなくお盆を迎えます。せっかくのご縁ですから、お盆参りを勤める中で、家族揃って「先祖代々のいのち」に想いを致してみませんか。先往く人々の存在を感じ取って、それをひとりひとりの心の中に継承していけることが、とっても大切で素敵なことではないでしょうか。