令和6年度 秋季永代経・納骨堂法要

令和6年度の秋季永代経法要と納骨堂法要を次のとおり勤めます。

令和6年11月20日(水)午後1時〜
令和6年11月21日(木)午前10時〜

法話 住職自役

1日目は本堂で法要を務めてから、納骨堂法要を行います。
2日目は納骨堂法要の後、本堂で法要を務めます。
開始時間が異なりますので、ご注意ください。

 先往く大切な方々を偲ぶ中で、南無阿弥陀仏のみ教えをたずね、いまを生きる私たちが、まことの拠り所を持っていくことができます。
 私に届いている深い恩に気づき、報謝につとめて参りましょう。どうぞご参詣ください。

人間甲斐

 動物には、種の保存のために、子を護る母性本能を促すホルモンが分泌される仕組みがあり、それによって護るべき存在と排除すべき敵とが区別されるそうで、動物の親子の群れに、別の群れの個体が入って来ようとしたとき、それを排除しようとするのは、そうした脳の仕組み、つまり本能によるものだそうです。

 人間も動物ですから、同じ仕組みを持っています。私たちは自分の家族と他人の家族とを当たり前に区別しますし、見方を広げれば、社会の中で自分に親しく仲の良い人たちと、そうではない人たちとを、区別しながら生活しています。これもまさに本能によってなされることでしょう。

 そのことを表す言葉に、親鸞聖人がご和讃の中に用いられた「愛憎違順」という言葉があります。「意に順ずるものは愛し、違うものは憎む」という意味ですが、このことが本能によって為され、私たちが離れることの出来ない煩悩なのだとすれば、これはもはや当然のこととして、肯定されていくべきなのでしょうか?

 私たちは動物であるとは言え、愛憎違順の心を「本能だから、煩悩だから」と、そのまま盛んにしてしまっては、なまじ人間は知恵を持っているだけに、他の動物よりもはるかにタチの悪い有様となってしまいます。同じ種の「人間」同士で、縄張り争いをし、争い傷つけ合う「戦争」の姿は、まさに動物の本能以上に煩悩を盛んにしている人間の愚かな姿そのものです。

 はたして私たちが人間に生まれて来た甲斐とは何でしょうか?そうやって本能のままに生き、恨みをつのらせ、憎しみ合い、争いに勝利して一時の愉悦に浸ることなのでしょうか。

 お釈迦様は、

「無慚愧はなづけて人と為さず、名づけて畜生と為す」

(我が身を省みて恥じる心のないものは人とは言えない。それは畜生と同じである。)

『涅槃経』

と仰っています。
 人間は慚愧の心を持つことができます。自分を省みて、愚かな行動を恥じ、自分以外の存在を認めながら、手を差し伸べ助け合える生き方こそ、人間として生まれて来た甲斐があり、本当の喜びのある人生であると、教えてくださっているのではないでしょうか。

 私たちの生きる世の中が、このまま畜生道や修羅道の世界へと染まっていかないように、お釈迦様の智慧ある言葉を皆が心に留め置かねばなりません。

のせてかならずわたしける

 パリオリンピックが始まり、どの競技でも連日手に汗握る勝負が繰り広げられています。
 開会式では、各国の選手がセーヌ川を船に乗って登場しましたが、国を代表して、あの船に乗るということだけでも、これまで途方もない努力や苦労を重ねてきた結果だと言うのに、さらにこれから厳しい試合を勝ち抜いて、頂点を目指さなくてはならないというのですから、私のような凡人にとっては、雲上界の出来事のようです。選手の皆さんを尊敬するばかりです。

さて、そんな風にテレビの中の開会式の様子を眺めながら、

生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば

弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける

「生死の迷いの苦しみは海のように深く際限がない。その苦しみの海に、遙か昔から浮き沈みしている私たちを、阿弥陀仏の本願の船だけが、必ず乗せて、安楽の浄土へと導いてくださるのである。」

                          『浄土和讃』

という親鸞聖人の書かれた和讃のことをふと思い出しました。

 阿弥陀様の本願のはたらきを、親鸞聖人は「ふね」に例えられていらっしゃるのですが、私が「オリンピック選手はすごいな、あんな風になれたらな」とどんなに願っても、開会式のあの船には乗ることは、まず不可能です。
 しかし、阿弥陀様の本願の船には、オリンピック選手であろうとも、凡人の私であろうとも、等しく乗せて頂くことができます。

 念仏を信じ称える者は、生まれ持った性格や才能も、生きてきた環境も、これまでしてきた行為も、全く異なっていても、一切の差別なく、等しく乗せて、必ずお浄土へと渡してくださるのが「弥陀弘誓のふね」だからです。

 オリンピックの金メダルを獲得する喜びは、今生ではどうやっても私には得ることはできませんが、阿弥陀様の浄土の世界に呼び起こされて、「いのちの拠り所」を知る喜びは、私のような凡夫にも等しく与えられていることに、深く安堵させて頂くことであります。

令和6年度 盂蘭盆会

東光寺では令和6年の「盂蘭盆会」(お盆の法要)を下記の日程で勤修します。
どうぞお誘い合わせの上、ご参詣ください。

8月15日(木)午後1時~
8月16日(金)午後1時~
法話:住職自役

浄土真宗のお盆は、先祖の追善供養を一番の目的に勤めるのではありません。
先往く人を想い大切にしながらも、今を生きる「私たち自身」が、亡き人を縁として仏前に手を合わせる中で、自らが本当に頼みとするべき拠り所を訪ねていくためのご縁です。
私たちがまことの拠り所とすべきは、阿弥陀如来のご本願であると、親鸞聖人は教えてくださっています。
このご縁に、ご本願に誓われている「念仏」のいわれをたずねて参りましょう。

うどん講のご案内

令和6年度のうどん講の法要を次のとおり勤めます。うどん講では御斎(おとき)に、うどんをご用意します。
お昼に御斎を召し上がっていただいた後、法要を勤めます。ぜひお誘い合わせの上、お参詣ください。

6月19日(水)、20日(木)午後1時~
(御斎は正午~)

挨拶

 先頃、町内の子どもたちの登校を見守る交通補導の役があたり、通学路に立っていました。自分から「おはようございます」と元気よく挨拶できる子、こちらから声をかけると挨拶する子、素通りしていく子、子どもたちの様子はそれぞれ違いましたが、やはり大きな声で挨拶できると気持ちが良いものです。挨拶できなかった子は、「どうしたのかな?体調が良くないのかな?」と心配になります。

 挨拶は、もともと仏教の禅の教えで用いられていた言葉だそうです。「挨」も「拶」も、「押す・迫る」という意味があり、群衆が他を押しのけて進む様子を表し、それを禅では、相手の悟りの浅深をはかるために「問答をしかけること」の意味に用いたそうです。それが転じて、応答や返礼などの意味に用いられるようになり、出遭いや別れのときの言葉や動作のことを一般に「挨拶」と言うようになったそうです。

 人間は一人だけで生きているのではなく、他の人との交流があって生活が成り立っていきます。その時に、お互いに相手の存在を認めあっていく最初の行動が「挨拶」です。

 挨拶は社会生活の基本になるとても大切なものだと言えますので、子どもたちには、ぜひこれからも元気よく挨拶できるように育っていってほしいと思いますし、ともすれば子どもより挨拶できない大人に出会うことがありますが、私たち大人も挨拶の大切さを改めて考えてみなくてはいけませんね。

造花

 まもなく春のお彼岸を迎えます。そろそろ仏前のお供えやお花を買いに行かなくてはいけませんね。

 さて、冬の間お寺の本堂は外と同じくらい気温が下がり、生花だと半日で凍ってしまうため、日頃は造花をお飾りしています。

 造花の中には、いかにも造花という感じのものと、一目では見分けがつかないような精巧なものがあります。その違いは何なのかと比べてみると、そもそも材質が違うということもあるのですが、それと共に、精巧な作りの方には、葉や花の色・形が異なるものが混じっていることで、リアルさが感じられます。
 いかにも…という造花は、妙な光沢に加えて、葉や花が全部同じで不自然です。

 自分が育てている観葉植物を見てみると、きれいな葉ばかりでなく形がいびつなもの、黄色くなって落ちそうなもの、出てきたばかりの小さなもの、穴の開いたもの、黒ずんだもの、など見た目の違う葉が沢山入り混じっています。
 機械で大量生産する造花は、手間をかけられませんから、そのような葉や花の違いが表現しきれないのでしょう。
 全てが同じではなく、大きさや形、色、新旧、様々な違いを持ったものが、共存しているのが本当の自然の姿なのだと気付かされます。

 私たちの人間も自然の一部です。違いがあることが本当の姿なのです。
 自分と違うから、少数派だからという理由で、拒絶し排除するのではなく、あらゆる人が必要な存在として認められ、それぞれが輝いている「本当」の世の中を目指していかねばなりませんね。

春季永代経・納骨堂法要

令和6年4月2日午後1時~
令和6年4月3日午前10時~
布教:香川県妙楽寺住職 川田慈恵 師

春季永代経法要は本山出役法座として勤められます。
本山出役法座とは、本山より任命された布教使が、各寺院に派遣され(出役)、布教にあたる法座です。
本年は、香川県より川田慈恵師が出役されます。
大切な聞法の機会ですので、どうぞお誘い合わせの上、ご参詣ください。

春のお彼岸法要

令和6年3月18日(月)~20日(水・祝)
各日午後1時より
法話:住職自役
※20日(水)は午前11時より物故者追弔法要を勤修

だんだんと日が長くなり、春が近づいてきたことを感じます。
東光寺では、春分の日までの3日間、彼岸法要を勤めます。
安心ある日暮らしを送っていくためにも、お念仏のいわれをたずねる聞法の機会を大切にして参りましょう。
ぜひお参りください。

なお、20日(水)は午前11時より令和5年度物故者追弔法要が勤修されます。物故者のご家族以外もお参り頂けます。
参詣の皆様には東光寺三宝の会より、御斎(おとき)が進上されますので、ぜひお召し上がり頂き、午後からのお彼岸法要にもお参りください。

確かなこと

 まとまった降雪が数日間続き、境内の吹き溜まりの除雪に追われる日々がようやく一段落しました。
 道内が大荒れになった先週木曜日、私は札幌出張中で、その日の内に飛行機で帰ってくる予定だったのですが、荒天により飛行機をはじめJRもバスも全て朝から運休となり、翌日の飛行機に振り替えて帰ってくることとなりました。
 翌金曜日は札幌方面は比較的穏やかでしたが、道東方面がいまだ荒れた天候で、私が乗る飛行機は、女満別空港が天候不良で着陸できない時は新千歳空港まで引き返す、という条件付き運航のもと出発しました。1時間ほどの遅れがあったものの、何とか出発できて「やれやれ…」と思いつつも、心中は穏やかではありません。引き返すということになっては、再び面倒なことになるので、「どうか無事に到着してほしい」とただただ願うばかりでした。

 さて…約1時間後、おかげさまで、私の乗った飛行機は風に煽られながらも、無事、女満別空港に到着しました。着陸の瞬間に感じた安心感はなかなか言葉では表現しきれません

 いつもなら間違いなく到着すると信じて乗っている飛行機が、この度は「そうではなかった」ために、私の心には不安が襲いました。考えてみれば、飛行機ばかりでなく、私たちは日頃、根拠のない「確かさ」を持って、「大丈夫だろう」と勝手に信じ込んで日々の生活を送っていますが、本当は私たちの生きる世の中は、「不確か」なことばかりなはずです。
 私たち人間の心が、そもそも不実であり不確かなのですから、その人間が作り出した世の中のものごとで、絶対と言えることなど到底ありえないでしょう。

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします

「煩悩にまみれた凡夫である我々、そして燃え落ちる家のようにはかない無常の世の中は、あらゆることが、空虚で偽りに満ちており、真実であることはない。その中で、阿弥陀仏の本願念仏のみが、ただ一つの本当のことなのだ。」

『歎異抄』後序

との親鸞聖人の言葉が響きます。

 不確かさばかりの人の世にあって、こればかりは間違いないと阿弥陀仏の本願念仏を味わってゆくことができる「安心感」が、そこにあります。
 不確かな私たちの人生の中に、ただひとつ「確かなこと」を頂いている喜びを教えてくださっています。