世の中安穏なれ

 わが身の往生、一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために、御念仏、こころにいれてもうして、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれと、おぼしめすべし

(仏の教えに出会って、みずからの身の救いが解決したと思う人は、仏のご恩に報いるためにお念仏を、心をこめて称え、「世の中が安らかで平穏であるように、仏法がひろまるように」と、お考えになるのがよいのです。)

『親鸞聖人御消息集(広本)』

 今年も残すところ、あと僅かとなりました。

 近年は、お正月を迎えても、若い時のような高揚感のような感覚よりも、歳月の重さを感じることの方が多くなりました。

 さて、私たちはお正月には「あけましておめでとう」という挨拶を交わします。
 よくよく考えてみると、新年を迎えたことをおめでとうと喜べるのは、実に有り難いことであったと気付かされます。

 社会が安定していること。
 命の心配がないこと。
 食べることに不自由しないこと。
 暖かい場所で寝られること。
 孤独の寂しさがないこと。

 そうした恵まれた環境にあってこそ、新年を喜ぶことができるのでしょう。
 逆を言えば、世の中では、それがままならない状況の人たちが、今この時も大勢いるのです。 
 誰もが穏やかに新年を迎えられることを願っているのに、世の中では、人間自身の「エゴ」によって、争い、苦しみ悩みながら、今日一日さえも危うい命が無数に存在しているわけです。

 私たちは、自分の都合こそ善悪の判断基準とし、都合の悪いものは排除しようとします。ですから世の中から争いが止むことがありません。実に哀しく、空しいことです。

 いま私たちがなすべきことは、阿弥陀仏の真実の智慧を拠り所として生きることです。そして、煩悩を抱えた凡夫としての自分自身の姿を知ることです。その中で、感謝と自省を持ち、世の中安穏なれと願う、まことの人間としての生き方が与えられてくるのではないでしょうか。

 

新年のおまいり

【修正会】のご案内

令和6年元日 午前9時~

新年のはじめに、仏前にご挨拶し、心あらたに過ごして参りましょう。

【はつまいり】のご案内

令和6年1月14日(日)
午前10時30分~法要と法話
正午より御斎(おとき)進上
午後1時~2時頃まで懇親会

午前中に法要を勤めた後、東光寺三宝会より御斎を進上します。
御斎を召し上がっていただいた後、ゲームやクイズなどの懇親会を行う予定です。
どうそお誘い合わせてお参りください。

サウナにて

 私は比較的サウナ好き。週に1度は近場のサウナでととのっています。出張で宿泊する時などは、必ずサウナ付きのホテルを選んで、これまた朝からととのっています。

 さて、先日のこと。いつものようにサウナを利用していると、60代とおぼしき男性が入ってまいりました。その人は自前のサウナマットは持っているのですが、タオルは持っていません。タオルがなければ、当然ながら流れた汗を受け止めるものはマット以外無いので、床はびしょぬれになります。その男性は、そのことを全く気にするそぶりも無く、サウナを堪能している様子。
 うーん・・・サウナ好きとしては、残念な気持ちです。
 サウナで汗が垂れて床が濡れるのは当然です。しかしながら、少しでもタオルで受け止めて、次の人がなるべく不快にならないように気遣ってほしいものです。

 「温泉に来てもタオルを持って入らない人もいるんだな…脱衣所もびしょぬれ…?」などと想いを巡らせている内に、今度は若い3人組が入ってきました。賑やかにおしゃべりをしています。せまいサウナ室内だから、ちょっと騒がしいです。しかし、その中の一人がサウナから出るときに、自分が座っていたところや足元の汗を、持っていたタオルで、さっと拭き取って行ったのです。
 ちょっとやかましかったけれど、そんなことが吹き飛ぶくらい感心しました。

 「おそらく、この若者の3倍近くは生きているであろうタオルの無いオジさんよ、この姿を見て、何かを感じておくれ…」と願いました。私も、その若者を見習って、自分の座っていた場所を見返してから出ることを心がけるようにしました。

 自分の行動を省みて、他の人のことを気遣えるということは、年齢が問題ではないのですね。日頃の心がけと習慣なのです。

 何事につけても、つい自分勝手に行動してしまう自分がいます。日々の在り方を省みる姿勢を持って生きたいものだと、若者の姿に学ばせて頂いたことであります。

秋季永代経・納骨堂法要

令和5年度の秋季永代経法要と納骨堂法要を次のとおり勤めます。

令和5年11月20日(月)午後1時〜
令和5年11月21日(火)午前10時〜

法話 住職自役

1日目は本堂で法要を務めてから、納骨堂法要を行います。
2日目は納骨堂法要の後、本堂で法要を務めます。
開始時間が異なりますので、ご注意ください。

 先往く大切な方々のおかげによって、今を生きる私達が南無阿弥陀仏のみ教えに出会い、まことの拠り所としていくことができるのです。
 深い恩を想い、感謝の法要を勤めましょう。どうぞご参詣ください。

自分を律する

 ラグビーワールドカップの決勝トーナメントが始まり、白熱した試合が続いています。日本が予選リーグを突破できなかったのは残念ですが、ベスト8に進んだ各国のプレーは、力強く速く華やかで、さすがと思える見応えのある試合を見せてくれます。 
 準々決勝の4試合はいずれも僅差のスコアで勝負を分けており、どちらのチームが勝ってもおかしくないような好試合ばかりでした。それ故に、負けた側は、大変悔しい思いをしたのではないでしょうか。
 しかし、試合後の各国のラグビー選手たちは、負けた側はその悔しさをぐっとこらえ、ノーサイドの精神に則って、相手チームの選手を讃えることを忘れません。反対に、勝ったチームも決して奢らず、必ず相手チームを讃えます。勝者も敗者も共に輝いているその場面は、いつ見ても心を打たれるのです。

 また、競技は全く別物ですが、日本国内では先日、将棋の藤井聡太さんが史上初の八冠を成し遂げ、大きなニュースとなりました。将棋においては、勝敗が決した後に、お互いが対局を振り返る「感想戦」というものがあるそうです。初めて感想戦の存在を知った時、将棋をしない私は、「試合で負けた後に、悔しさを押し殺して対局を振り返ることなんて、よく出来るな…」と思ったものです。
 これもラグビーのノーサイド精神に通じるものがあり、お互いに全力で戦ったからこそ、負けた方は胸を張って勝者を讃え、勝った方も決して奢らず、相手を認めることが出来るのでしょう。

 必ず勝者と敗者が生まれるこうした勝負の世界の中で、常に自らの心を律し、勝敗に関わらず相手を認めていくということは本当に難しいことだと思います。そのことが出来るからこそ一流のプレイヤーとなれるのかもしれませんね。

 さて、私たちは、ともすれば自分の望みに反することがあれば、そっぽを向き、自分の方が正しいのだから嫌味の一つでも言ってやろうという慢心を抱えていないでしょうか。

邪見驕慢悪衆生
(よこしまな考え方や間違ったものの見方をして、おごり、たかぶりの中で、生きている我ら)

『正信念仏偈』

との親鸞聖人の言葉が胸に刺さります。
 自分の心を律し、省みながら、互いが認め合えるような社会を実現していきたいですね。

視点

 大学に進学した長男が京都から夏休みで帰省していた折、長男の部屋の上階から水漏れが発生したとマンションの管理会社から連絡が来ました。水漏れした部屋の斜め下にあたる長男の部屋の方が、真下の部屋よりも浸水がひどかったそうですが、なんとか家財道具などは水浸しにならずに済んだようです。

 しかし、後日部屋の様子を心配しながら京都に戻った長男には、それなりの試練が待っていました。

 床面は半分ほどが水につかったため、でこぼこになり、敷いていたラグにはカビが生えていました。食料を保管していたキッチンの棚にもカビが生え、食材にニオイが移っていました。トイレや風呂にも、汚れた形跡があり、何よりも部屋全体がカビ臭くて、生活がままならない状況だったようです。
 しばらくホテル住まいをしながら、管理会社や保険会社と修繕対応の話を進めました。修繕完了までは1~2ヶ月はかかるらしく、それまで代わりの部屋を管理会社に用意してもらう必要があるようです。

 こうして文章にすると、それほどのことでは無いように思われますが、まだ一人暮らしをはじめて半年ほどの長男が、これらのすべてを自分ひとりで対応するのは、なかなか大変だったようです。(実際には、私や妻に何度も電話で相談し、「勘弁して」と頭を抱えながら、進めていました。)
 しかし現在は、まだ仮部屋も決まっていないものの、先の見通しが立ったことで、当初の混乱は落ち着き、多少の心の余裕が出来ました。

 さて、長男は当初、このような状況に困惑し、「何でこんな目に遇わなくてはいけないんだ」と嘆いていました。しかし、心に余裕ができた今は、「まぁこれもいい社会勉強になった」と言っています。「漏水事故」に対して、当初は「迷惑極まりない」と感じていた長男が、視点を変えることによって「自分を成長させる出来事」として受け止めることができたようです。

 物事の見方ひとつで、同じ出来事でも全く受け止め方が異なってくるのですね。

 このことは、私たちの身の回りに起こるすべての出来事に当てはまります。私たちは人生の中で、様々な悲苦に出あわなくてはなりません。必ず起こる困難を、どの視点から見つめていくかが肝心です。

 悲嘆にくれ、愚痴をこぼし、「ああしておけば・・・」と悔やんでばかりよりも、辛く苦しいあの出来事も、私の人生の大切な1コマだったのだな、と受け止められる視点をもって生きていきたいものです。

秋のお彼岸法要

令和5年秋のお彼岸法要は次の日程で勤めます。
どうぞご参詣ください。

9月21日(木)~9月23日(土)
各日午後1時より

法話:住職、前住

~お願い~
納骨堂にご参詣の方は、ロウソクや線香など、火元の管理に十分ご注意ください。
お参り後は、納骨壇の扉を開けたままにしておいてください。


秋分の日は、太陽が真西に沈みます。先人達は、その先の西方浄土(彼岸)を想い、手を合わせお念仏なさったことでしょう。

これほど科学技術が発達し、文明が進んだ現代にも関わらず、私たちは相変わらず不安や悩みを抱えつづけ生きています。煩悩に惑い、四苦八苦に翻弄されながら悩み生きる人間の本質は、過去から何ら変わっていないということでしょう。

先人達が阿弥陀如来の浄土を想い、その人生を安らいでいかれたように、私たちも阿弥陀様のご本願を訪ね、まことの拠り所を持った確かな人生を歩ませて頂きましょう。

令和五年度「報恩講」

宗祖親鸞聖人報恩講を次の日程で勤修します。

8月24日(木)
午後1時00分~ 逮夜法要・法話
午後3時00分~ 御伝記拝読
午後3時30分~ 初夜法要・法話

8月25日(金)
午前10時00分~ 結日中法要・法話

【布教】幌加内町了善寺住職 守田秀生 師 

報恩講は浄土真宗の宗祖、親鸞聖人の御命日法要です。親鸞聖人のお陰により、今を生きる私たちに、心の拠り所となるお念仏の教えが伝えられて参りました。
その御恩に報い、感謝を込めて、勤められる大切な法要です。どうぞお参りください。

先祖代々

 先日、お参りに行った先で、「先祖代々という言葉は、すでに死語になっているらしいよ」というお話を伺いました。

 たしかに昨今は、生まれ育った土地を離れて生活する人が増え、「家」や「仏壇」・「墓」・「土地」など、代々受け継がれてきたものが、継承しにくくなってきています。

 昔よりも交通が便利になったこともあり、「住」生活の仕組みも変化しているのですから、それも致し方ないことと思いますし、社会の変化の中で、「当たり前」だと思われていたことが過去のものになっていき、新しい「標準」が出来あがっていくことは、決して悪いこととは思いません。
 そうした中で「先祖代々」という言葉が用いられなくなることは、必然だったのかもしれませんが、その言葉とともに、考え方そのものも無くなってしまうのでしょうか。

 社会が変わったからと言って、「大切なこと」まで「過去のもの・不要なもの」として捨て去ってしまうわけにはいきません。それでは、私たちの人生そのものが、大切なものを忘れた空虚な人生になってしまうことでしょう。

 私は住職として、仏壇や寺との関係、家や土地などを、過去の伝統の通りに継承していくことが、本当に大切なことだと言うつもりはありません。それが難しいのであれば、社会の変化に対応できる、何か良い方法を探すべきでしょう。

 一番肝心なことは、継承の仕方・形というよりも、私たちの「今」が、果てしない「過去」から繋がっているということに「想いを致すことが出来るかどうか」ではないでしょうか。それは言い換えれば、自分のいのちの尊さや重みに気づいていくことが出来るかどうかということだと思います。

 まもなくお盆を迎えます。せっかくのご縁ですから、お盆参りを勤める中で、家族揃って「先祖代々のいのち」に想いを致してみませんか。先往く人々の存在を感じ取って、それをひとりひとりの心の中に継承していけることが、とっても大切で素敵なことではないでしょうか。

令和5年お盆法要

東光寺では令和5年の「お盆法要」を下記の日程で勤修します。
どうぞお誘い合わせの上、ご参詣ください。

8月15日(火)午後1時~
8月16日(水)午後1時~
法話:住職、前住

浄土真宗のお盆は、先祖の追善供養が最大の目的ではありません。
大切な先往く人を想い、故人を縁として仏前に手を合わせる中で、今を生きる「私たち自身」が、自らが本当に頼みとするべき拠り所を訪ねていくための行事です。
私たちがまことの拠り所とすべきは、阿弥陀如来のご本願であると、親鸞聖人は教えてくださっています。
お盆のご縁に、ご本願に誓われている「念仏」のいわれをたずねて参りましょう。